2010年5月29日土曜日

ナタリー・ロジャースに会う: CIIS留学日記

ナタリー・ロジャースに会う: CIIS留学日記「サンフランシスコ・

メモメモ。御年81歳ですか~

2010年3月28日日曜日

「フォーカシング指向心理療法とHuaYan哲学」その二

華厳仏教のとりわけ私に興味を持たせる側面は、その相互関連、あるいはいわゆる物事の相互浸透の強調です。

The aspects of Hua Yan Buddhism which especially interests me is its emphasis on interconnection, or what it calls the 'interpenetration' of the things.

この考えは私にはジェンドリンがプロセスモデルの中で発展させている相互影響[作用]の考えとよく似ているように思われます。

This notion seems to me similar to the notion of 'interaffectiong' that Gendlin develops in A Process Model.

ジェンドリンの「暗在[内在]」と「外在」の概念と華厳の「理」と「事」の観念の間に類似点があるようにも思われます。

 **
真夜中にコーヒーを飲んで、 発作的に英文和訳に取り組んでみた。(私の拙い能力にとって)最後の一押しのような訳語を洗練させる作業が足りないようだが、私の意欲も足りないのでもうこれでいい。

最近、私にとって、フォーカシングこそが進むべき道と決め付けないことが、人生を、生きることを楽にするのかも知れないと感じています。私の生きる支えとして、そっと寄り添ってくれるものとしてあってくれたらいいなと、「距離を置く」ことができるだろうか。ちょっとそれに聞いてみようと思います…。
 

2010年3月13日土曜日

読みたいもの

フォーカシングワークブックの参考文献から。

Kleinの論文いくつか。
「主体感覚とその賦活化」

フォーカシングを伝えるワークショップは、どのように教えたらよいか

2010年3月6日土曜日

「フォーカシング指向心理療法とHuaYan哲学」その一

フォーカシング指向心理療法とHuaYan哲学
キャンベル・パートン

フォーカシング指向療法は、その根をクライエント中心療法とジェンドリンの経験(体験流、体験過程)哲学に持っている。
Focusing-oriented therapy has its roots in the client-centered therapy and Gendlin's philosophy of experiencing.

一人の哲学者として、わたしは常にフォーカシングへは哲学的背景に関心を寄せてきた。
As a philosopher, I have always interested with the philosophical background to Focusing,

そしてわたしの仏教への興味は、最近わたしを西洋では有名ではない哲学の体系―(日本で華厳として知られた)ファーヤン仏教哲学に目を向けるように導かれた。
and my interest in Buddhism has recently led me to a philosophical systems that is not well-known in West - the Chinese philosophy of Hua Yan Buddhism. - known as Kegon in Japan.

※淡路島で行われた国際会議「和」のホームページから、いくつか資料をプリントアウトして拝読しました。華厳宗は、わたしも心を寄せる明恵上人の宗派(と書いてしまいたくはないと感じているが)であり、また、大須賀発蔵先生が、カウンセリングと東洋の知恵をつなぐ講義でお話になるものの一つが曼荼羅とともに華厳経であります。その宇宙観にひきつけられ、大正大学の講義に足を運び、漢文をから読み下したお経の講義を受けたりしたことも、懐かしい思い出です。と言うわけで、特別な感情を持っているKegonとFocusingがどう切り結ぶのか興味を持ちました。

久しぶりの英文和訳で、(面倒で)辞書も使いませんでした。紙と鉛筆でエイヤッと。動詞の訳し方などのほか、思わぬ勘違いをしているかもしれません。(そういうものを辞書で修正していくのがわたしの英文和訳の仕事の中心になっています。)

HuaYanとは華厳の中国語読み(ファャンは正確ですか)なのでしょうか。ネットで検索してもよく分かりませんでした。(自宅にある哲学辞典は載っていませんでした。あとは仏教辞典ですね…)
哲学的背景のあと、to Focusing となっているのも?です。フォーカシングに向けて、哲学的背景に関心を持っているでは意味が通らないではありませんか。

また、このキャンベル・パートンは、フォーカシング関係者なら知らない人はいない有名な人だと検索して知りました。PCAで名前を見かけるイーストアングリア大学教授。訳書も出ています(題名くらいは見たことはあると思います)。掘り下げていけば、どこまでも続いていくかのような、奥の深いフォーカシング。そんな対象に出会えたことを幸せに思います。いや、むしろそれを通してわたしのからだの感じ、が意味に昇華する体験世界に出会えたことが…。

この訳業は、続くか不明。(この訳は10・3・1に作成しました)
※訳業は、続きませんでした。「パーソンセンタード・アプローチの最前線」を読んでいて、キャンベル教授の名前を間違えていたことに気づい(てい)たので修正しました。

2010年2月27日土曜日

「はじめてのフォーカシング」セミナー雑感

 私は大切な人=私に出会うつもりでセミナーに参加した。だから、フォーカシング体験を通して出会った私、フェルトセンスなどについて(限定して)記録を残しておきたいと思います。
 何故、私はセミナーでそれをシェアすることができず、こうしてブログという場で書き残すのでしょうか。私はセミナーでお話できることはお話し、そしてこうしてブログに書いても構わないほどの私的な(そしてセミナーに限定されない)体験は、こうしてブログで分かち合おうと思います。

私のフォーカシング体験は、リスナーにも恵まれ(その反面、対等ではない関係に申し訳なさと引け目も感じ遠慮もしたのですが)危うく涙をこぼしてしまいそうな、日の当たらない、抑圧された、人の支えなしでは触れることさえ恐れていた私のからだの感覚に気づくことを可能にしました。私の抵抗もあり、十分とはいかないものの、君がそこにいるんだね、そして話しかけられるのを待ち望んでいたそれに挨拶し、また会いに来るからねということはできました。

当日、セミナー開始後に、講師の講義部分に限って録音がOKであるという説明がありましたが、質問をしたのは私ではなく、別の場所にあった録音機能のついた電子機器を取りにいく気にはなれませんでした。しかし、後でクリアリング・ア・スペースのガイダンスなど、レコードできた部分を聞き直してみると、すごくいいです。私は、録音もメモも録りたいのですが、それによって脅かされると感じたり、不快に感じる人がいるかもしれないと想像することはできます。また、私自身も、それによって抜け落ちていくものがあるかもしれないと感じます。講義部分にも、体験実習があり、その分かち合いの部分は個人的なものです。(録音はしていません)しかし、その部分だけは録音していませんなどと言っても、どうして信用してもらえるでしょうか。

  • フォーカシングは瞑想ではないことを体験的に学んだ。目を閉じて瞑想状態に入りやすい(むしろそういう訓練をしている)自分に気づいた。 まさにフォーカシングの初学者の姿である。フォーカシングへの誘いに、抵抗する自分。普段の習慣を打ち破っていくことになると感じています。そして、それはわくわくすることでもあります。何が出てくるのか分からない宝箱のような。リソースに触れていくような。そこには私がいます。わたしの中の私に出会うこと。それが、フォーカシングを通して私が何気なく求めていたものではないかと感じています。
  • 当日のワークのシェア(その場で話せなかったこと)
    • 「苦手な人、好きな人のフェルトセンスを感じて、その違いに気づく練習」
      • 苦手な人は、近しい人。近しい人の苦手な部分を思い浮かべた。身近にいるということは、いろいろなことを許す関係。受け入れていく。それでも残っている苦手な部分が意識に上ってきた。
      • 好きな人は、いま距離を置いている人(一人)を思い浮かべた。ギュッとする感じ。様々な陰性感情を抱きながら距離を置いている私の底に、「好き」という感情が隠されていた。こうして書いてみると、それは不思議なことでもなんでもないのかなと感じる。どんなふうに感じるか=胸がドキドキする。思春期の男の子のような感情が出てきた。それを大切にしよう。心の奥底に秘めて…
      • 苦手な人、好きな人のフェルトセンスを感じてその違いに気づく:苦手な人にはギュッとする、締め付けられる感じがする。その反対は、広がっていく、ほんわかする、解きほぐされる感じという気がするが、わたしは胸の高鳴りという感じだった。もっとからだを感じてみると面白いものが出てくるかもしれない。
  • クリアリング・ア・スペース
    • からだを解きほぐしてたんを吐き(それを飲み込んでしまい、すっかり気分がげっそりする。)、目を閉じて瞑想状態に入ってしまった私。(後でガイダンスを聞きなおすと、瞑想状態に入ることについても注意されていた。)目を覚まして気がかりなことを白紙に列挙することでワークに変えることにしたが、やはり、それは講師のガイダンスになる「クリアリング・ア・スペース」とは違う気がする。はじめは増井武士氏の新書「悩む心の整理学」 で知ったと思うこの技法を、ようやく体験する機会に恵まれたというだけでよしとしよう。私は思った以上に技法に抵抗を感じるらしい。そういうからだの知恵を信頼しよう。思わぬトラウマが障壁となっているのかもしれない。何より、そうして自分の心や体の感じに思った以上に、まったく耳を傾けてこなかったことが露になってしまうような感じがする。能書きではない体験学習の世界世界への参入。私はそれを前に足が竦んだ…。
  • フォーカシングをやってみる
    • これについてはあまり書きたくない。からだの感じを確かめてみようというガイドの誘いに抵抗して持ち時間を浪費する。足先から頭のてっぺんをとおり、指先に降りてくるらしいからだ調べも、私のフェルトセンスが引き止めるので最後まで行かなかったが、それで十分だった。私は私のからだに注意を向けるということを、初めて人に支えられてやり遂げた。どうしてこれが、フォーカシングという枠組みを通してしかできないのだろうか?このからだ調べの最初、窮屈な靴を履いている感じがしていたが、最後私の口から、「しっとりと地面に足の裏がついていく感じがします」 という言葉がこぼれていた。今、セミナーが終わって一週間だが、このしっとりと地面に足の裏がついている感じがこの言葉とともに思い出されてくる。それが、私のであったからだの感覚、セミナーで得られた大きな収穫の一つであった。(すべてであるというのは言い過ぎてであると感じるので・・・)
    • もう一つ、「背中が曲がっている」というのがあった。わたしの中の何かが、背筋は伸びていなくてはならないといっているのを感じる。でも一方で、それ自身はリラックスして、休憩している状態であると感じる自分もいる。知らず知らず理想の状態にからだを当てはめようとする自分。からだはそれを脱ぎ、背骨をゆったりさせることで休息しているのです。わたしの意識の目を盗んで・・・わたしの意識がそれほど厳しく監視しないでいる間に・・・。
  • どこかでフォーカシングにメディスンを求めていた私は、このワークを通して副作用を受け取っても仕方のないことだと理解している。自分を治したいなどと操作的なことを考えていると、からだに負担をかけるように感じる。 ロジャーズの受容的な態度から出てきている技法を、自分を操作するために使おうとするなんて愚かなことをするのが自分なんだなと感じる。自分をそのまま受け止める。あるがままに。これを書いていてそんなことを感じる。これがはじめてのフォーカシング体験です。恥ずかしながら。

    2010年2月17日水曜日

    フォーカシング・ニューマニュアルの読書中。

    フォーカシング・ニューマニュアルを読んでいるが、一息に読み終わるというわけには行かないつらい読書である。第8章にようやく入ったところ。貸し出し期限は既に過ぎている。
    ワークブックになっているが、回答を見るだけで実際に手を動かして解いたりしない。体験がないからか、マニュアル的な記述は私の脳を素通りしていくようだ。
    そこにある哲学が、わたしの中で育まれるように。(フォーカシング的な)内的な対話が促進されますように。そんな願いを込めて、フォーカシング書籍の読書を続けています。
    その副作用は、世界をフォーカシング的に見てしまうことです。感動した言葉を、フォーカシングではこういうことね、などと素人が陳腐な解説をしていますみたいな感じになってしまう。芸術を貶めてしまう。
    今年、いくつかワークショップなどに参加する予定です(本気)。
    ※このエントリーを書くことで、読書プロセスは推進したみたい。今週中には読み終わるかな~ワークシート
    もできるだけ手を動かして取り組みたいです。
    ※最近注目しているブログ。神田橋先生の本をきっかけにフォーカシングに興味を持ったという医師のブログです。宣伝効果大な神田橋先生。先生がそんなにいいというなら試してみようという人は多いのでしょう。
    ※セミナーに合わせて読み終わるかなぁと思いきや、当日読んでいったのはカルロス・カスタネダの「時の輪」。帰りの電車でちょうど最後まで読み終わりました。マニュアルのワークシートをやっていけば、リスナーのときに活かせたのに(付け焼刃だからだめかなぁ)、私はからだひとつでセミナーを体験したかったのだと感じる。何の予備知識もなく。精一杯ついていく。リフレクションする。カウンセリングを受けていた頃、あんないらいらしたリフレクションを一生懸命やっていた今日の自分。より深く、からだごと世界に向かい合うのに、あなたは役に立ってくれますか。

    2010年1月24日日曜日

    Exploring with Gene - FISS 2009

    ジェンドリンの動画を見つけた。

    これはどうも、完全版は販売されているみたい。

    2009年ということは、わたしの中では一番最近のジェンドリン先生であります。