ジェンドリンの動画を見つけた。
これはどうも、完全版は販売されているみたい。
2009年ということは、わたしの中では一番最近のジェンドリン先生であります。
翻訳ノートを投稿することを目的にこのブログを開設しました。それは、紙片に書き記したものを打ち込み、再構成し、自分で自分の訳出プロセスを見つめるメタ翻訳の作業になりました。他に、翻訳する作業自体を振り返るメタ認知的な日記、翻訳の合間に日本語や英文で読む文章のメモなどがあります。読書記録は、書評ではなく、読書プロセスを記録したものであり、必ずしも本の内容の適切な紹介となってはいません。
2010年1月24日日曜日
2010年1月13日水曜日
[講演録]ひとつの形より以上のものを持つとき
ジェンドリン,E.T.(2006,11月).ひとつの形より以上のものを持つとき、真実はより多くのものですが、それはひとつの形ではありません。[書き起こし].
基調演説、信頼と感情の心理学会議.ストーニーブルック大学,ニューヨーク.http://focusing.org/gendlin/docs/gol_2178.html[ページ1]
ひとつの形より以上のものを持つとき、真実はより多くのものですが、しかしそれはひとつの形ではありません。(仮訳題)
ユージン T. ジェンドリン,Ph.D.
基調演説、信頼と感情の心理学会議.
ストーニーブルック大学、ニューヨーク,11月17ー18日,2006年.
ジェンドリン: 私が期待していたよりもずっとよかったです。
[笑い]
ジェ ンドリン:さて、まず私はこれは私の通常の声ではないといいたいと思います。それはまだずっと戻ってきていません。私は手術から回復してきています。そし て私は実にいいのですが、あらゆることが正常化するのにひと間かかるでしょう。次に、私はちょうど今、ボブ・シャーフとほかの人々の後で、私は順境にある といいたいのです。それで、ともかく私が話すことは、いくらかリスクがあるのです。
[笑い]
ジェンドリン:もし私があなた方をがっかりさせたら、ボブや他の人が言ったことなら何であれ(かまいませんので)、すぐに戻ってください。
[笑い]
[笑い]
2010年1月11日月曜日
読んだ文書
アフガン救助隊員によるフオーカシングの利用:お風呂で読むのにちょうどいい長さだった。(しかし何というコメントだろう。)
追記:関連文書 (拙訳)
インタラクティヴ・フォーカシングの魅力と威力その可能性と今後:pdfの印刷設定でbookletにしたら、不思議な構成になった。切って束ねると本になるのだろう。インタラクティヴなフォーカシングが普通のフォーカシングとどう違うのか今ひとつ分かっていない。インタラクティヴでないフォーカシングがそもそも考えられないし。
追記:関連文書 (拙訳)
インタラクティヴ・フォーカシングの魅力と威力その可能性と今後:pdfの印刷設定でbookletにしたら、不思議な構成になった。切って束ねると本になるのだろう。インタラクティヴなフォーカシングが普通のフォーカシングとどう違うのか今ひとつ分かっていない。インタラクティヴでないフォーカシングがそもそも考えられないし。
2009年12月14日月曜日
「ジェンドリン哲学入門」2
第7章でイサドラ・ダンカンの自伝が出てきた(325, 327, 330, 333∼336, 343以降も)。邦訳はおろか原著の掲載もなく、ジェンドリンが引用していたというだけ。この本は、日本で精神世界の翻訳で有名な山川紘矢・亜希子夫妻が(そういえば奥さんが主体になって)訳しているものではないだろうか。
翻訳出版記念パーティ?の二人のスピーチも動画で見たことがある。図書館で偶然見つけた本を、のめりこむようにして読んだ記憶がよみがえってきた。この章を担当された村里先生は、前半の章でカスタネダに言及する(70ページ、注も)など、痒いところに手が届く。本当にツボを突いてくる。
夜中、ホットミルクを飲みながらカントの哲学書を読んでいたというダンカン。今でも、その自伝からわたしはインスパイアされています。
※その後、第8章も読了(09・12・15)。ミンデルにも言及される(ジェンドリンにミンデルという人を知っているかと問いかける話。)など、本当に痒いところに手が届き、本当に感激しました。
※その後、読了。わたしがこの本で時間があればしたかったのは、書き抜きノート、単語ノートの作成などです。複数の人が書いていますが、フェルトセンスと対話しながら、自分の感性どう響きあうかを感じ、味わいながら読むことができた。臨床家は個性が強く、簡単にお互いに解け合ったりしない(とくにその主張の根幹にかかわることについて)ところがあるし、同じ単語の(微妙な)表記の仕方の違い(たとえばimplyingの訳語の表記の本当に微妙な揺らぎ)は、対論を重ねた上でのそれぞれのギリギリの表現の仕方なのだと感じる。(もちろん本人に確認しなければわからないことでもあるけれど。)
翻訳出版記念パーティ?の二人のスピーチも動画で見たことがある。図書館で偶然見つけた本を、のめりこむようにして読んだ記憶がよみがえってきた。この章を担当された村里先生は、前半の章でカスタネダに言及する(70ページ、注も)など、痒いところに手が届く。本当にツボを突いてくる。
夜中、ホットミルクを飲みながらカントの哲学書を読んでいたというダンカン。今でも、その自伝からわたしはインスパイアされています。
※その後、第8章も読了(09・12・15)。ミンデルにも言及される(ジェンドリンにミンデルという人を知っているかと問いかける話。)など、本当に痒いところに手が届き、本当に感激しました。
※その後、読了。わたしがこの本で時間があればしたかったのは、書き抜きノート、単語ノートの作成などです。複数の人が書いていますが、フェルトセンスと対話しながら、自分の感性どう響きあうかを感じ、味わいながら読むことができた。臨床家は個性が強く、簡単にお互いに解け合ったりしない(とくにその主張の根幹にかかわることについて)ところがあるし、同じ単語の(微妙な)表記の仕方の違い(たとえばimplyingの訳語の表記の本当に微妙な揺らぎ)は、対論を重ねた上でのそれぞれのギリギリの表現の仕方なのだと感じる。(もちろん本人に確認しなければわからないことでもあるけれど。)
2009年12月13日日曜日
キャロライン・ブレイジャー「自己牢獄を超えて」 その2
「自己牢獄を超えて」にたくさん出てくる”Beyond Carl Rogers”という本に引かれて、著者の名前でGoogle検索してみた。動画がYoutubeで見られることはわかっていたけど、ブログからツイッター、Facebookまで出てきて興奮する。
当たり前といえば当たり前で、こうして勉強しようと思えば、(ネット上のリソースに限って言えば)無料で学ぶこともできる。しかし、こうした興奮は冷めて、私は継続してそれを探求していくかというとそうではないだろう。
自由だから、とらわれることなく、世界を見てみたい。私はアマチュアとして、いろいろな意味でプロフェッショナルな世界とは距離を置いていたい。何かに詳しいだけなのは専門何とかだ。だから私は抵抗を感じ、未成熟な心のまま、ふわふわと漂うのだろうか。
切ったら血が出る真人、妙好人、いや、「ただの人」として生きていく。
禅僧のように、いまいる場所で、重労働に身をやつし、清浄な食物を摂り、正しい精進をしていく。
(あ、これはいかんかも…。)
**
下書きに入れてあったものを久しぶりに開いてみた。
さて、冒頭に戻って、「Beyond Carl Rogers」はAmazonに表示される順番から言って、売れている本ではないのかも。キャロラインに、フェイスブックで、「あなたの本を翻訳で読みました。私はこのテーマの本を読みたいと思っています。どうもありがとう。」という意味のメッセージを送ってみた。
彼女自身の本では、最新作の"Other-centerd Therapy"があるけど、まだ翻訳が出ていない、夫の本は日本語になっているけれども…というお返事をいただいた。私は「自己牢獄を超えて」を訳した人の写真を見て、坊主になろう、出家しようと思うほど惹きつけられてしまった。
だから、機会があったら「フィーリング・ブッダ」 なども読んでみたい。大須賀先生由来の「東洋の智慧とカウンセリングをつなぐ」というテーマは、ずっと関心を持っていたことのはずなのに、仏教心理学を標榜した本は殆ど読まずに来てしまった。
最近「仏教心理学会」のホームページを見つけてから、上記のテーマへの関心が再燃しつつあるが、いろいろ読んでいる本もあるので、仏教心理学に手を伸ばすのは先延ばしになるだろう。ただ、仏教関係の本はちらほら読みすすめている。今は、チベットの「死者の書」関連を調べている。
当たり前といえば当たり前で、こうして勉強しようと思えば、(ネット上のリソースに限って言えば)無料で学ぶこともできる。しかし、こうした興奮は冷めて、私は継続してそれを探求していくかというとそうではないだろう。
自由だから、とらわれることなく、世界を見てみたい。私はアマチュアとして、いろいろな意味でプロフェッショナルな世界とは距離を置いていたい。何かに詳しいだけなのは専門何とかだ。だから私は抵抗を感じ、未成熟な心のまま、ふわふわと漂うのだろうか。
切ったら血が出る真人、妙好人、いや、「ただの人」として生きていく。
禅僧のように、いまいる場所で、重労働に身をやつし、清浄な食物を摂り、正しい精進をしていく。
(あ、これはいかんかも…。)
**
下書きに入れてあったものを久しぶりに開いてみた。
さて、冒頭に戻って、「Beyond Carl Rogers」はAmazonに表示される順番から言って、売れている本ではないのかも。キャロラインに、フェイスブックで、「あなたの本を翻訳で読みました。私はこのテーマの本を読みたいと思っています。どうもありがとう。」という意味のメッセージを送ってみた。
彼女自身の本では、最新作の"Other-centerd Therapy"があるけど、まだ翻訳が出ていない、夫の本は日本語になっているけれども…というお返事をいただいた。私は「自己牢獄を超えて」を訳した人の写真を見て、坊主になろう、出家しようと思うほど惹きつけられてしまった。
だから、機会があったら「フィーリング・ブッダ」 なども読んでみたい。大須賀先生由来の「東洋の智慧とカウンセリングをつなぐ」というテーマは、ずっと関心を持っていたことのはずなのに、仏教心理学を標榜した本は殆ど読まずに来てしまった。
最近「仏教心理学会」のホームページを見つけてから、上記のテーマへの関心が再燃しつつあるが、いろいろ読んでいる本もあるので、仏教心理学に手を伸ばすのは先延ばしになるだろう。ただ、仏教関係の本はちらほら読みすすめている。今は、チベットの「死者の書」関連を調べている。
「フォーカシング(新しいイントロダクションを伴う再刊行物)」(2007年)
このブログで翻訳ノートを掲載してきた新しいイントロダクションを伴う再刊行物がこれです。画像がまだありません。アマゾンでは、ジェンドリンの著作の中では最下位にあります。まだまだこれからということでしょうか。
もともとのペーパーバック版は、それに引き換え最上位にヒットします。画像も載せられ、カッコいいです。しかも、以下のランキングを見てください。私は心理学にセルフ・ヘルプを求める人間なんだけど、まさに、心理学よりセルフヘルプの本として売れているといったことなんでしょうか。
| 洋書 > Health, Mind & Body > Self-Help > Personal Transformation | |
| 洋書 > Religion & Spirituality > New Age | |
| 洋書 > Health, Mind & Body > Psychology & Counseling |
※これからの予定として、ちょっといい加減の嫌いのあった上記の和訳を見直してみるというのもあります。
2009年12月9日水曜日
アン・ワイザー・コーネル「やさしいフォーカシング 自分でできるこころの処方箋」
1999年に出た本だというので、驚いてしまった。
そういえば、池袋のリブロで背表紙を眺めていたこと(そのワン・シーン)を思い出す。それは、だから、そのころの出来事なんだ。よく精神世界とか心理の棚の前で、立ち読みして過ごした。
(浪人していたのでよほどのことがない限り気になる本でも買えなかったなぁ。)
こうして10年経って手元にやってきてくれたことにありがとうといいたいです。そして不思議な感じがする。私がこうして読むまでに、それだけの時間が必要だったのかということ。
付箋をつけたところをいくつか書き抜いてみたい。
こうして自分が何気なく付箋を残したままにするところを見ても(基本的には、後で戻ってこれるようにする目印として、読み終わったところに貼ります。)、どんなことを自分が問題と感じているのかわかります。そして、そんなことを取り上げるのには実際にフォーカシングのセッションを受けるのが一番いいのだと感じます。
※ブログを書くときの語尾は、基本的に「思います」になることに気づきました。こうした内容を取り上げた記事なので、せめて今回だけは、「思います」を使うのを遠慮しようと「思いました(ほら、やっぱり)」。
※アンのホームページに、この本の原著のイントロダクションのPDFを見つけました。グーグルドキュメントによるプレビュー。
そういえば、池袋のリブロで背表紙を眺めていたこと(そのワン・シーン)を思い出す。それは、だから、そのころの出来事なんだ。よく精神世界とか心理の棚の前で、立ち読みして過ごした。
(浪人していたのでよほどのことがない限り気になる本でも買えなかったなぁ。)
こうして10年経って手元にやってきてくれたことにありがとうといいたいです。そして不思議な感じがする。私がこうして読むまでに、それだけの時間が必要だったのかということ。
付箋をつけたところをいくつか書き抜いてみたい。
・論理的な考えが登場しているというサインは他にもあります。「と思います」とか「多分」とか「に違いない」といっていることに気づいたら、頭で考えていると思われます。こういう言い回しは、答えがフェルトセンスからきたものではないことを示しています。からだの内側に注意を戻して、もう一度質問するか、あるいは「頭で考えた」答えを、からだの内側に持っていって、「これは納得できるかな」と尋ねてみてもいいですね。…(後略)<81ページから>「と思います」というのが論理的な考えが登場しているというサインというのが意外に思った(とここでも私自身が「思う」と書いている。)。「思う」という言葉は「感じる」というより「思考(思うという漢字が使われている…)」に近い、というよりそのものなんだとこれを書いていて感じた(お、これは「感じた」だ…)。「多分」も「に違いない」も(後者は断定を避けるよう修正に努めている)私が使いがちな言葉です。
確かに、ゆっくりとしか変化しないこともあるし、辛抱強さが必要だということも事実です。しかし、これら「難しい」クライエントのプロセスが痛ましいほどに変わらないのは、彼らが変化の源となるものに触れていないことが多いからです。彼らは頭で知性化したり分析します。あるいは、感情にとらわれて同じところをぐるぐる回ってばかりいます。(170ページ)
クライエントが自分の感情に触れていないときは、心理治療での動きや変化はなかなか起こりません。フォーカシングは、感情に敏感になるよう促す方法にもなります。今までに述べてきた提案を二・三試してみると、この種の援助が必要な人がわかると思います。感情が何も出てこないような人です。(180ページ)
こうして自分が何気なく付箋を残したままにするところを見ても(基本的には、後で戻ってこれるようにする目印として、読み終わったところに貼ります。)、どんなことを自分が問題と感じているのかわかります。そして、そんなことを取り上げるのには実際にフォーカシングのセッションを受けるのが一番いいのだと感じます。
※ブログを書くときの語尾は、基本的に「思います」になることに気づきました。こうした内容を取り上げた記事なので、せめて今回だけは、「思います」を使うのを遠慮しようと「思いました(ほら、やっぱり)」。
※アンのホームページに、この本の原著のイントロダクションのPDFを見つけました。グーグルドキュメントによるプレビュー。
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