ナタリー・ロジャースに会う: CIIS留学日記「サンフランシスコ・
メモメモ。御年81歳ですか~
翻訳ノートを投稿することを目的にこのブログを開設しました。それは、紙片に書き記したものを打ち込み、再構成し、自分で自分の訳出プロセスを見つめるメタ翻訳の作業になりました。他に、翻訳する作業自体を振り返るメタ認知的な日記、翻訳の合間に日本語や英文で読む文章のメモなどがあります。読書記録は、書評ではなく、読書プロセスを記録したものであり、必ずしも本の内容の適切な紹介となってはいません。
2010年5月29日土曜日
2010年3月28日日曜日
「フォーカシング指向心理療法とHuaYan哲学」その二
華厳仏教のとりわけ私に興味を持たせる側面は、その相互関連、あるいはいわゆる物事の相互浸透の強調です。
The aspects of Hua Yan Buddhism which especially interests me is its emphasis on interconnection, or what it calls the 'interpenetration' of the things.
この考えは私にはジェンドリンがプロセスモデルの中で発展させている相互影響[作用]の考えとよく似ているように思われます。
This notion seems to me similar to the notion of 'interaffectiong' that Gendlin develops in A Process Model.
ジェンドリンの「暗在[内在]」と「外在」の概念と華厳の「理」と「事」の観念の間に類似点があるようにも思われます。
**
真夜中にコーヒーを飲んで、 発作的に英文和訳に取り組んでみた。(私の拙い能力にとって)最後の一押しのような訳語を洗練させる作業が足りないようだが、私の意欲も足りないのでもうこれでいい。
最近、私にとって、フォーカシングこそが進むべき道と決め付けないことが、人生を、生きることを楽にするのかも知れないと感じています。私の生きる支えとして、そっと寄り添ってくれるものとしてあってくれたらいいなと、「距離を置く」ことができるだろうか。ちょっとそれに聞いてみようと思います…。
The aspects of Hua Yan Buddhism which especially interests me is its emphasis on interconnection, or what it calls the 'interpenetration' of the things.
この考えは私にはジェンドリンがプロセスモデルの中で発展させている相互影響[作用]の考えとよく似ているように思われます。
This notion seems to me similar to the notion of 'interaffectiong' that Gendlin develops in A Process Model.
ジェンドリンの「暗在[内在]」と「外在」の概念と華厳の「理」と「事」の観念の間に類似点があるようにも思われます。
**
真夜中にコーヒーを飲んで、 発作的に英文和訳に取り組んでみた。(私の拙い能力にとって)最後の一押しのような訳語を洗練させる作業が足りないようだが、私の意欲も足りないのでもうこれでいい。
最近、私にとって、フォーカシングこそが進むべき道と決め付けないことが、人生を、生きることを楽にするのかも知れないと感じています。私の生きる支えとして、そっと寄り添ってくれるものとしてあってくれたらいいなと、「距離を置く」ことができるだろうか。ちょっとそれに聞いてみようと思います…。
2010年3月13日土曜日
2010年3月6日土曜日
「フォーカシング指向心理療法とHuaYan哲学」その一
フォーカシング指向心理療法とHuaYan哲学
キャンベル・パートン
フォーカシング指向療法は、その根をクライエント中心療法とジェンドリンの経験(体験流、体験過程)哲学に持っている。
Focusing-oriented therapy has its roots in the client-centered therapy and Gendlin's philosophy of experiencing.
一人の哲学者として、わたしは常にフォーカシングへは哲学的背景に関心を寄せてきた。
As a philosopher, I have always interested with the philosophical background to Focusing,
そしてわたしの仏教への興味は、最近わたしを西洋では有名ではない哲学の体系―(日本で華厳として知られた)ファーヤン仏教哲学に目を向けるように導かれた。
and my interest in Buddhism has recently led me to a philosophical systems that is not well-known in West - the Chinese philosophy of Hua Yan Buddhism. - known as Kegon in Japan.
※淡路島で行われた国際会議「和」のホームページから、いくつか資料をプリントアウトして拝読しました。華厳宗は、わたしも心を寄せる明恵上人の宗派(と書いてしまいたくはないと感じているが)であり、また、大須賀発蔵先生が、カウンセリングと東洋の知恵をつなぐ講義でお話になるものの一つが曼荼羅とともに華厳経であります。その宇宙観にひきつけられ、大正大学の講義に足を運び、漢文をから読み下したお経の講義を受けたりしたことも、懐かしい思い出です。と言うわけで、特別な感情を持っているKegonとFocusingがどう切り結ぶのか興味を持ちました。
久しぶりの英文和訳で、(面倒で)辞書も使いませんでした。紙と鉛筆でエイヤッと。動詞の訳し方などのほか、思わぬ勘違いをしているかもしれません。(そういうものを辞書で修正していくのがわたしの英文和訳の仕事の中心になっています。)
HuaYanとは華厳の中国語読み(ファャンは正確ですか)なのでしょうか。ネットで検索してもよく分かりませんでした。(自宅にある哲学辞典は載っていませんでした。あとは仏教辞典ですね…)
哲学的背景のあと、to Focusing となっているのも?です。フォーカシングに向けて、哲学的背景に関心を持っているでは意味が通らないではありませんか。
また、このキャンベル・パートンは、フォーカシング関係者なら知らない人はいない有名な人だと検索して知りました。PCAで名前を見かけるイーストアングリア大学教授。訳書も出ています(題名くらいは見たことはあると思います)。掘り下げていけば、どこまでも続いていくかのような、奥の深いフォーカシング。そんな対象に出会えたことを幸せに思います。いや、むしろそれを通してわたしのからだの感じ、が意味に昇華する体験世界に出会えたことが…。
この訳業は、続くか不明。(この訳は10・3・1に作成しました)
※訳業は、続きませんでした。「パーソンセンタード・アプローチの最前線」を読んでいて、キャンベル教授の名前を間違えていたことに気づい(てい)たので修正しました。
キャンベル・パートン
フォーカシング指向療法は、その根をクライエント中心療法とジェンドリンの経験(体験流、体験過程)哲学に持っている。
Focusing-oriented therapy has its roots in the client-centered therapy and Gendlin's philosophy of experiencing.
一人の哲学者として、わたしは常にフォーカシングへは哲学的背景に関心を寄せてきた。
As a philosopher, I have always interested with the philosophical background to Focusing,
そしてわたしの仏教への興味は、最近わたしを西洋では有名ではない哲学の体系―(日本で華厳として知られた)ファーヤン仏教哲学に目を向けるように導かれた。
and my interest in Buddhism has recently led me to a philosophical systems that is not well-known in West - the Chinese philosophy of Hua Yan Buddhism. - known as Kegon in Japan.
※淡路島で行われた国際会議「和」のホームページから、いくつか資料をプリントアウトして拝読しました。華厳宗は、わたしも心を寄せる明恵上人の宗派(と書いてしまいたくはないと感じているが)であり、また、大須賀発蔵先生が、カウンセリングと東洋の知恵をつなぐ講義でお話になるものの一つが曼荼羅とともに華厳経であります。その宇宙観にひきつけられ、大正大学の講義に足を運び、漢文をから読み下したお経の講義を受けたりしたことも、懐かしい思い出です。と言うわけで、特別な感情を持っているKegonとFocusingがどう切り結ぶのか興味を持ちました。
久しぶりの英文和訳で、(面倒で)辞書も使いませんでした。紙と鉛筆でエイヤッと。動詞の訳し方などのほか、思わぬ勘違いをしているかもしれません。(そういうものを辞書で修正していくのがわたしの英文和訳の仕事の中心になっています。)
HuaYanとは華厳の中国語読み(ファャンは正確ですか)なのでしょうか。ネットで検索してもよく分かりませんでした。(自宅にある哲学辞典は載っていませんでした。あとは仏教辞典ですね…)
哲学的背景のあと、to Focusing となっているのも?です。フォーカシングに向けて、哲学的背景に関心を持っているでは意味が通らないではありませんか。
また、このキャンベル・パートンは、フォーカシング関係者なら知らない人はいない有名な人だと検索して知りました。PCAで名前を見かけるイーストアングリア大学教授。訳書も出ています(題名くらいは見たことはあると思います)。掘り下げていけば、どこまでも続いていくかのような、奥の深いフォーカシング。そんな対象に出会えたことを幸せに思います。いや、むしろそれを通してわたしのからだの感じ、が意味に昇華する体験世界に出会えたことが…。
この訳業は、続くか不明。(この訳は10・3・1に作成しました)
※訳業は、続きませんでした。「パーソンセンタード・アプローチの最前線」を読んでいて、キャンベル教授の名前を間違えていたことに気づい(てい)たので修正しました。
2010年2月27日土曜日
「はじめてのフォーカシング」セミナー雑感
私は大切な人=私に出会うつもりでセミナーに参加した。だから、フォーカシング体験を通して出会った私、フェルトセンスなどについて(限定して)記録を残しておきたいと思います。
何故、私はセミナーでそれをシェアすることができず、こうしてブログという場で書き残すのでしょうか。私はセミナーでお話できることはお話し、そしてこうしてブログに書いても構わないほどの私的な(そしてセミナーに限定されない)体験は、こうしてブログで分かち合おうと思います。
私のフォーカシング体験は、リスナーにも恵まれ(その反面、対等ではない関係に申し訳なさと引け目も感じ遠慮もしたのですが)危うく涙をこぼしてしまいそうな、日の当たらない、抑圧された、人の支えなしでは触れることさえ恐れていた私のからだの感覚に気づくことを可能にしました。私の抵抗もあり、十分とはいかないものの、君がそこにいるんだね、そして話しかけられるのを待ち望んでいたそれに挨拶し、また会いに来るからねということはできました。
当日、セミナー開始後に、講師の講義部分に限って録音がOKであるという説明がありましたが、質問をしたのは私ではなく、別の場所にあった録音機能のついた電子機器を取りにいく気にはなれませんでした。しかし、後でクリアリング・ア・スペースのガイダンスなど、レコードできた部分を聞き直してみると、すごくいいです。私は、録音もメモも録りたいのですが、それによって脅かされると感じたり、不快に感じる人がいるかもしれないと想像することはできます。また、私自身も、それによって抜け落ちていくものがあるかもしれないと感じます。講義部分にも、体験実習があり、その分かち合いの部分は個人的なものです。(録音はしていません)しかし、その部分だけは録音していませんなどと言っても、どうして信用してもらえるでしょうか。
何故、私はセミナーでそれをシェアすることができず、こうしてブログという場で書き残すのでしょうか。私はセミナーでお話できることはお話し、そしてこうしてブログに書いても構わないほどの私的な(そしてセミナーに限定されない)体験は、こうしてブログで分かち合おうと思います。
私のフォーカシング体験は、リスナーにも恵まれ(その反面、対等ではない関係に申し訳なさと引け目も感じ遠慮もしたのですが)危うく涙をこぼしてしまいそうな、日の当たらない、抑圧された、人の支えなしでは触れることさえ恐れていた私のからだの感覚に気づくことを可能にしました。私の抵抗もあり、十分とはいかないものの、君がそこにいるんだね、そして話しかけられるのを待ち望んでいたそれに挨拶し、また会いに来るからねということはできました。
当日、セミナー開始後に、講師の講義部分に限って録音がOKであるという説明がありましたが、質問をしたのは私ではなく、別の場所にあった録音機能のついた電子機器を取りにいく気にはなれませんでした。しかし、後でクリアリング・ア・スペースのガイダンスなど、レコードできた部分を聞き直してみると、すごくいいです。私は、録音もメモも録りたいのですが、それによって脅かされると感じたり、不快に感じる人がいるかもしれないと想像することはできます。また、私自身も、それによって抜け落ちていくものがあるかもしれないと感じます。講義部分にも、体験実習があり、その分かち合いの部分は個人的なものです。(録音はしていません)しかし、その部分だけは録音していませんなどと言っても、どうして信用してもらえるでしょうか。
- フォーカシングは瞑想ではないことを体験的に学んだ。目を閉じて瞑想状態に入りやすい(むしろそういう訓練をしている)自分に気づいた。 まさにフォーカシングの初学者の姿である。フォーカシングへの誘いに、抵抗する自分。普段の習慣を打ち破っていくことになると感じています。そして、それはわくわくすることでもあります。何が出てくるのか分からない宝箱のような。リソースに触れていくような。そこには私がいます。わたしの中の私に出会うこと。それが、フォーカシングを通して私が何気なく求めていたものではないかと感じています。
- 当日のワークのシェア(その場で話せなかったこと)
- 「苦手な人、好きな人のフェルトセンスを感じて、その違いに気づく練習」
- 苦手な人は、近しい人。近しい人の苦手な部分を思い浮かべた。身近にいるということは、いろいろなことを許す関係。受け入れていく。それでも残っている苦手な部分が意識に上ってきた。
- 好きな人は、いま距離を置いている人(一人)を思い浮かべた。ギュッとする感じ。様々な陰性感情を抱きながら距離を置いている私の底に、「好き」という感情が隠されていた。こうして書いてみると、それは不思議なことでもなんでもないのかなと感じる。どんなふうに感じるか=胸がドキドキする。思春期の男の子のような感情が出てきた。それを大切にしよう。心の奥底に秘めて…
- 苦手な人、好きな人のフェルトセンスを感じてその違いに気づく:苦手な人にはギュッとする、締め付けられる感じがする。その反対は、広がっていく、ほんわかする、解きほぐされる感じという気がするが、わたしは胸の高鳴りという感じだった。もっとからだを感じてみると面白いものが出てくるかもしれない。
- クリアリング・ア・スペース
- からだを解きほぐしてたんを吐き(それを飲み込んでしまい、すっかり気分がげっそりする。)、目を閉じて瞑想状態に入ってしまった私。(後でガイダンスを聞きなおすと、瞑想状態に入ることについても注意されていた。)目を覚まして気がかりなことを白紙に列挙することでワークに変えることにしたが、やはり、それは講師のガイダンスになる「クリアリング・ア・スペース」とは違う気がする。はじめは増井武士氏の新書「悩む心の整理学」 で知ったと思うこの技法を、ようやく体験する機会に恵まれたというだけでよしとしよう。私は思った以上に技法に抵抗を感じるらしい。そういうからだの知恵を信頼しよう。思わぬトラウマが障壁となっているのかもしれない。何より、そうして自分の心や体の感じに思った以上に、まったく耳を傾けてこなかったことが露になってしまうような感じがする。能書きではない体験学習の世界世界への参入。私はそれを前に足が竦んだ…。
- フォーカシングをやってみる
- これについてはあまり書きたくない。からだの感じを確かめてみようというガイドの誘いに抵抗して持ち時間を浪費する。足先から頭のてっぺんをとおり、指先に降りてくるらしいからだ調べも、私のフェルトセンスが引き止めるので最後まで行かなかったが、それで十分だった。私は私のからだに注意を向けるということを、初めて人に支えられてやり遂げた。どうしてこれが、フォーカシングという枠組みを通してしかできないのだろうか?このからだ調べの最初、窮屈な靴を履いている感じがしていたが、最後私の口から、「しっとりと地面に足の裏がついていく感じがします」 という言葉がこぼれていた。今、セミナーが終わって一週間だが、このしっとりと地面に足の裏がついている感じがこの言葉とともに思い出されてくる。それが、私のであったからだの感覚、セミナーで得られた大きな収穫の一つであった。(すべてであるというのは言い過ぎてであると感じるので・・・)
- もう一つ、「背中が曲がっている」というのがあった。わたしの中の何かが、背筋は伸びていなくてはならないといっているのを感じる。でも一方で、それ自身はリラックスして、休憩している状態であると感じる自分もいる。知らず知らず理想の状態にからだを当てはめようとする自分。からだはそれを脱ぎ、背骨をゆったりさせることで休息しているのです。わたしの意識の目を盗んで・・・わたしの意識がそれほど厳しく監視しないでいる間に・・・。
- どこかでフォーカシングにメディスンを求めていた私は、このワークを通して副作用を受け取っても仕方のないことだと理解している。自分を治したいなどと操作的なことを考えていると、からだに負担をかけるように感じる。 ロジャーズの受容的な態度から出てきている技法を、自分を操作するために使おうとするなんて愚かなことをするのが自分なんだなと感じる。自分をそのまま受け止める。あるがままに。これを書いていてそんなことを感じる。これがはじめてのフォーカシング体験です。恥ずかしながら。
2010年2月17日水曜日
フォーカシング・ニューマニュアルの読書中。
フォーカシング・ニューマニュアルを読んでいるが、一息に読み終わるというわけには行かないつらい読書である。第8章にようやく入ったところ。貸し出し期限は既に過ぎている。
ワークブックになっているが、回答を見るだけで実際に手を動かして解いたりしない。体験がないからか、マニュアル的な記述は私の脳を素通りしていくようだ。
そこにある哲学が、わたしの中で育まれるように。(フォーカシング的な)内的な対話が促進されますように。そんな願いを込めて、フォーカシング書籍の読書を続けています。
その副作用は、世界をフォーカシング的に見てしまうことです。感動した言葉を、フォーカシングではこういうことね、などと素人が陳腐な解説をしていますみたいな感じになってしまう。芸術を貶めてしまう。
今年、いくつかワークショップなどに参加する予定です(本気)。
※このエントリーを書くことで、読書プロセスは推進したみたい。今週中には読み終わるかな~ワークシート
もできるだけ手を動かして取り組みたいです。
※最近注目しているブログ。神田橋先生の本をきっかけにフォーカシングに興味を持ったという医師のブログです。宣伝効果大な神田橋先生。先生がそんなにいいというなら試してみようという人は多いのでしょう。
※セミナーに合わせて読み終わるかなぁと思いきや、当日読んでいったのはカルロス・カスタネダの「時の輪」。帰りの電車でちょうど最後まで読み終わりました。マニュアルのワークシートをやっていけば、リスナーのときに活かせたのに(付け焼刃だからだめかなぁ)、私はからだひとつでセミナーを体験したかったのだと感じる。何の予備知識もなく。精一杯ついていく。リフレクションする。カウンセリングを受けていた頃、あんないらいらしたリフレクションを一生懸命やっていた今日の自分。より深く、からだごと世界に向かい合うのに、あなたは役に立ってくれますか。
ワークブックになっているが、回答を見るだけで実際に手を動かして解いたりしない。体験がないからか、マニュアル的な記述は私の脳を素通りしていくようだ。
そこにある哲学が、わたしの中で育まれるように。(フォーカシング的な)内的な対話が促進されますように。そんな願いを込めて、フォーカシング書籍の読書を続けています。
その副作用は、世界をフォーカシング的に見てしまうことです。感動した言葉を、フォーカシングではこういうことね、などと素人が陳腐な解説をしていますみたいな感じになってしまう。芸術を貶めてしまう。
今年、いくつかワークショップなどに参加する予定です(本気)。
※このエントリーを書くことで、読書プロセスは推進したみたい。今週中には読み終わるかな~ワークシート
もできるだけ手を動かして取り組みたいです。
※最近注目しているブログ。神田橋先生の本をきっかけにフォーカシングに興味を持ったという医師のブログです。宣伝効果大な神田橋先生。先生がそんなにいいというなら試してみようという人は多いのでしょう。
※セミナーに合わせて読み終わるかなぁと思いきや、当日読んでいったのはカルロス・カスタネダの「時の輪」。帰りの電車でちょうど最後まで読み終わりました。マニュアルのワークシートをやっていけば、リスナーのときに活かせたのに(付け焼刃だからだめかなぁ)、私はからだひとつでセミナーを体験したかったのだと感じる。何の予備知識もなく。精一杯ついていく。リフレクションする。カウンセリングを受けていた頃、あんないらいらしたリフレクションを一生懸命やっていた今日の自分。より深く、からだごと世界に向かい合うのに、あなたは役に立ってくれますか。
2010年1月24日日曜日
2010年1月13日水曜日
[講演録]ひとつの形より以上のものを持つとき
ジェンドリン,E.T.(2006,11月).ひとつの形より以上のものを持つとき、真実はより多くのものですが、それはひとつの形ではありません。[書き起こし].
基調演説、信頼と感情の心理学会議.ストーニーブルック大学,ニューヨーク.http://focusing.org/gendlin/docs/gol_2178.html[ページ1]
ひとつの形より以上のものを持つとき、真実はより多くのものですが、しかしそれはひとつの形ではありません。(仮訳題)
ユージン T. ジェンドリン,Ph.D.
基調演説、信頼と感情の心理学会議.
ストーニーブルック大学、ニューヨーク,11月17ー18日,2006年.
ジェンドリン: 私が期待していたよりもずっとよかったです。
[笑い]
ジェ ンドリン:さて、まず私はこれは私の通常の声ではないといいたいと思います。それはまだずっと戻ってきていません。私は手術から回復してきています。そし て私は実にいいのですが、あらゆることが正常化するのにひと間かかるでしょう。次に、私はちょうど今、ボブ・シャーフとほかの人々の後で、私は順境にある といいたいのです。それで、ともかく私が話すことは、いくらかリスクがあるのです。
[笑い]
ジェンドリン:もし私があなた方をがっかりさせたら、ボブや他の人が言ったことなら何であれ(かまいませんので)、すぐに戻ってください。
[笑い]
[笑い]
2010年1月11日月曜日
読んだ文書
アフガン救助隊員によるフオーカシングの利用:お風呂で読むのにちょうどいい長さだった。(しかし何というコメントだろう。)
追記:関連文書 (拙訳)
インタラクティヴ・フォーカシングの魅力と威力その可能性と今後:pdfの印刷設定でbookletにしたら、不思議な構成になった。切って束ねると本になるのだろう。インタラクティヴなフォーカシングが普通のフォーカシングとどう違うのか今ひとつ分かっていない。インタラクティヴでないフォーカシングがそもそも考えられないし。
追記:関連文書 (拙訳)
インタラクティヴ・フォーカシングの魅力と威力その可能性と今後:pdfの印刷設定でbookletにしたら、不思議な構成になった。切って束ねると本になるのだろう。インタラクティヴなフォーカシングが普通のフォーカシングとどう違うのか今ひとつ分かっていない。インタラクティヴでないフォーカシングがそもそも考えられないし。
2009年12月14日月曜日
「ジェンドリン哲学入門」2
第7章でイサドラ・ダンカンの自伝が出てきた(325, 327, 330, 333∼336, 343以降も)。邦訳はおろか原著の掲載もなく、ジェンドリンが引用していたというだけ。この本は、日本で精神世界の翻訳で有名な山川紘矢・亜希子夫妻が(そういえば奥さんが主体になって)訳しているものではないだろうか。
翻訳出版記念パーティ?の二人のスピーチも動画で見たことがある。図書館で偶然見つけた本を、のめりこむようにして読んだ記憶がよみがえってきた。この章を担当された村里先生は、前半の章でカスタネダに言及する(70ページ、注も)など、痒いところに手が届く。本当にツボを突いてくる。
夜中、ホットミルクを飲みながらカントの哲学書を読んでいたというダンカン。今でも、その自伝からわたしはインスパイアされています。
※その後、第8章も読了(09・12・15)。ミンデルにも言及される(ジェンドリンにミンデルという人を知っているかと問いかける話。)など、本当に痒いところに手が届き、本当に感激しました。
※その後、読了。わたしがこの本で時間があればしたかったのは、書き抜きノート、単語ノートの作成などです。複数の人が書いていますが、フェルトセンスと対話しながら、自分の感性どう響きあうかを感じ、味わいながら読むことができた。臨床家は個性が強く、簡単にお互いに解け合ったりしない(とくにその主張の根幹にかかわることについて)ところがあるし、同じ単語の(微妙な)表記の仕方の違い(たとえばimplyingの訳語の表記の本当に微妙な揺らぎ)は、対論を重ねた上でのそれぞれのギリギリの表現の仕方なのだと感じる。(もちろん本人に確認しなければわからないことでもあるけれど。)
翻訳出版記念パーティ?の二人のスピーチも動画で見たことがある。図書館で偶然見つけた本を、のめりこむようにして読んだ記憶がよみがえってきた。この章を担当された村里先生は、前半の章でカスタネダに言及する(70ページ、注も)など、痒いところに手が届く。本当にツボを突いてくる。
夜中、ホットミルクを飲みながらカントの哲学書を読んでいたというダンカン。今でも、その自伝からわたしはインスパイアされています。
※その後、第8章も読了(09・12・15)。ミンデルにも言及される(ジェンドリンにミンデルという人を知っているかと問いかける話。)など、本当に痒いところに手が届き、本当に感激しました。
※その後、読了。わたしがこの本で時間があればしたかったのは、書き抜きノート、単語ノートの作成などです。複数の人が書いていますが、フェルトセンスと対話しながら、自分の感性どう響きあうかを感じ、味わいながら読むことができた。臨床家は個性が強く、簡単にお互いに解け合ったりしない(とくにその主張の根幹にかかわることについて)ところがあるし、同じ単語の(微妙な)表記の仕方の違い(たとえばimplyingの訳語の表記の本当に微妙な揺らぎ)は、対論を重ねた上でのそれぞれのギリギリの表現の仕方なのだと感じる。(もちろん本人に確認しなければわからないことでもあるけれど。)
2009年12月13日日曜日
キャロライン・ブレイジャー「自己牢獄を超えて」 その2
「自己牢獄を超えて」にたくさん出てくる”Beyond Carl Rogers”という本に引かれて、著者の名前でGoogle検索してみた。動画がYoutubeで見られることはわかっていたけど、ブログからツイッター、Facebookまで出てきて興奮する。
当たり前といえば当たり前で、こうして勉強しようと思えば、(ネット上のリソースに限って言えば)無料で学ぶこともできる。しかし、こうした興奮は冷めて、私は継続してそれを探求していくかというとそうではないだろう。
自由だから、とらわれることなく、世界を見てみたい。私はアマチュアとして、いろいろな意味でプロフェッショナルな世界とは距離を置いていたい。何かに詳しいだけなのは専門何とかだ。だから私は抵抗を感じ、未成熟な心のまま、ふわふわと漂うのだろうか。
切ったら血が出る真人、妙好人、いや、「ただの人」として生きていく。
禅僧のように、いまいる場所で、重労働に身をやつし、清浄な食物を摂り、正しい精進をしていく。
(あ、これはいかんかも…。)
**
下書きに入れてあったものを久しぶりに開いてみた。
さて、冒頭に戻って、「Beyond Carl Rogers」はAmazonに表示される順番から言って、売れている本ではないのかも。キャロラインに、フェイスブックで、「あなたの本を翻訳で読みました。私はこのテーマの本を読みたいと思っています。どうもありがとう。」という意味のメッセージを送ってみた。
彼女自身の本では、最新作の"Other-centerd Therapy"があるけど、まだ翻訳が出ていない、夫の本は日本語になっているけれども…というお返事をいただいた。私は「自己牢獄を超えて」を訳した人の写真を見て、坊主になろう、出家しようと思うほど惹きつけられてしまった。
だから、機会があったら「フィーリング・ブッダ」 なども読んでみたい。大須賀先生由来の「東洋の智慧とカウンセリングをつなぐ」というテーマは、ずっと関心を持っていたことのはずなのに、仏教心理学を標榜した本は殆ど読まずに来てしまった。
最近「仏教心理学会」のホームページを見つけてから、上記のテーマへの関心が再燃しつつあるが、いろいろ読んでいる本もあるので、仏教心理学に手を伸ばすのは先延ばしになるだろう。ただ、仏教関係の本はちらほら読みすすめている。今は、チベットの「死者の書」関連を調べている。
当たり前といえば当たり前で、こうして勉強しようと思えば、(ネット上のリソースに限って言えば)無料で学ぶこともできる。しかし、こうした興奮は冷めて、私は継続してそれを探求していくかというとそうではないだろう。
自由だから、とらわれることなく、世界を見てみたい。私はアマチュアとして、いろいろな意味でプロフェッショナルな世界とは距離を置いていたい。何かに詳しいだけなのは専門何とかだ。だから私は抵抗を感じ、未成熟な心のまま、ふわふわと漂うのだろうか。
切ったら血が出る真人、妙好人、いや、「ただの人」として生きていく。
禅僧のように、いまいる場所で、重労働に身をやつし、清浄な食物を摂り、正しい精進をしていく。
(あ、これはいかんかも…。)
**
下書きに入れてあったものを久しぶりに開いてみた。
さて、冒頭に戻って、「Beyond Carl Rogers」はAmazonに表示される順番から言って、売れている本ではないのかも。キャロラインに、フェイスブックで、「あなたの本を翻訳で読みました。私はこのテーマの本を読みたいと思っています。どうもありがとう。」という意味のメッセージを送ってみた。
彼女自身の本では、最新作の"Other-centerd Therapy"があるけど、まだ翻訳が出ていない、夫の本は日本語になっているけれども…というお返事をいただいた。私は「自己牢獄を超えて」を訳した人の写真を見て、坊主になろう、出家しようと思うほど惹きつけられてしまった。
だから、機会があったら「フィーリング・ブッダ」 なども読んでみたい。大須賀先生由来の「東洋の智慧とカウンセリングをつなぐ」というテーマは、ずっと関心を持っていたことのはずなのに、仏教心理学を標榜した本は殆ど読まずに来てしまった。
最近「仏教心理学会」のホームページを見つけてから、上記のテーマへの関心が再燃しつつあるが、いろいろ読んでいる本もあるので、仏教心理学に手を伸ばすのは先延ばしになるだろう。ただ、仏教関係の本はちらほら読みすすめている。今は、チベットの「死者の書」関連を調べている。
「フォーカシング(新しいイントロダクションを伴う再刊行物)」(2007年)
このブログで翻訳ノートを掲載してきた新しいイントロダクションを伴う再刊行物がこれです。画像がまだありません。アマゾンでは、ジェンドリンの著作の中では最下位にあります。まだまだこれからということでしょうか。
もともとのペーパーバック版は、それに引き換え最上位にヒットします。画像も載せられ、カッコいいです。しかも、以下のランキングを見てください。私は心理学にセルフ・ヘルプを求める人間なんだけど、まさに、心理学よりセルフヘルプの本として売れているといったことなんでしょうか。
| 洋書 > Health, Mind & Body > Self-Help > Personal Transformation | |
| 洋書 > Religion & Spirituality > New Age | |
| 洋書 > Health, Mind & Body > Psychology & Counseling |
※これからの予定として、ちょっといい加減の嫌いのあった上記の和訳を見直してみるというのもあります。
2009年12月9日水曜日
アン・ワイザー・コーネル「やさしいフォーカシング 自分でできるこころの処方箋」
1999年に出た本だというので、驚いてしまった。
そういえば、池袋のリブロで背表紙を眺めていたこと(そのワン・シーン)を思い出す。それは、だから、そのころの出来事なんだ。よく精神世界とか心理の棚の前で、立ち読みして過ごした。
(浪人していたのでよほどのことがない限り気になる本でも買えなかったなぁ。)
こうして10年経って手元にやってきてくれたことにありがとうといいたいです。そして不思議な感じがする。私がこうして読むまでに、それだけの時間が必要だったのかということ。
付箋をつけたところをいくつか書き抜いてみたい。
こうして自分が何気なく付箋を残したままにするところを見ても(基本的には、後で戻ってこれるようにする目印として、読み終わったところに貼ります。)、どんなことを自分が問題と感じているのかわかります。そして、そんなことを取り上げるのには実際にフォーカシングのセッションを受けるのが一番いいのだと感じます。
※ブログを書くときの語尾は、基本的に「思います」になることに気づきました。こうした内容を取り上げた記事なので、せめて今回だけは、「思います」を使うのを遠慮しようと「思いました(ほら、やっぱり)」。
※アンのホームページに、この本の原著のイントロダクションのPDFを見つけました。グーグルドキュメントによるプレビュー。
そういえば、池袋のリブロで背表紙を眺めていたこと(そのワン・シーン)を思い出す。それは、だから、そのころの出来事なんだ。よく精神世界とか心理の棚の前で、立ち読みして過ごした。
(浪人していたのでよほどのことがない限り気になる本でも買えなかったなぁ。)
こうして10年経って手元にやってきてくれたことにありがとうといいたいです。そして不思議な感じがする。私がこうして読むまでに、それだけの時間が必要だったのかということ。
付箋をつけたところをいくつか書き抜いてみたい。
・論理的な考えが登場しているというサインは他にもあります。「と思います」とか「多分」とか「に違いない」といっていることに気づいたら、頭で考えていると思われます。こういう言い回しは、答えがフェルトセンスからきたものではないことを示しています。からだの内側に注意を戻して、もう一度質問するか、あるいは「頭で考えた」答えを、からだの内側に持っていって、「これは納得できるかな」と尋ねてみてもいいですね。…(後略)<81ページから>「と思います」というのが論理的な考えが登場しているというサインというのが意外に思った(とここでも私自身が「思う」と書いている。)。「思う」という言葉は「感じる」というより「思考(思うという漢字が使われている…)」に近い、というよりそのものなんだとこれを書いていて感じた(お、これは「感じた」だ…)。「多分」も「に違いない」も(後者は断定を避けるよう修正に努めている)私が使いがちな言葉です。
確かに、ゆっくりとしか変化しないこともあるし、辛抱強さが必要だということも事実です。しかし、これら「難しい」クライエントのプロセスが痛ましいほどに変わらないのは、彼らが変化の源となるものに触れていないことが多いからです。彼らは頭で知性化したり分析します。あるいは、感情にとらわれて同じところをぐるぐる回ってばかりいます。(170ページ)
クライエントが自分の感情に触れていないときは、心理治療での動きや変化はなかなか起こりません。フォーカシングは、感情に敏感になるよう促す方法にもなります。今までに述べてきた提案を二・三試してみると、この種の援助が必要な人がわかると思います。感情が何も出てこないような人です。(180ページ)
こうして自分が何気なく付箋を残したままにするところを見ても(基本的には、後で戻ってこれるようにする目印として、読み終わったところに貼ります。)、どんなことを自分が問題と感じているのかわかります。そして、そんなことを取り上げるのには実際にフォーカシングのセッションを受けるのが一番いいのだと感じます。
※ブログを書くときの語尾は、基本的に「思います」になることに気づきました。こうした内容を取り上げた記事なので、せめて今回だけは、「思います」を使うのを遠慮しようと「思いました(ほら、やっぱり)」。
※アンのホームページに、この本の原著のイントロダクションのPDFを見つけました。グーグルドキュメントによるプレビュー。
2009年12月4日金曜日
私の読書リスト(フォーカシング関係書籍)★
「やさしいフォーカシング」 やさしいフォーカシングと銘打った入門書ですが、原書のタイトルにはそのようなニュアンスはないみたいです。「フォーカシングの力」を紹介するといったら、やっぱり入門書になるのかな。専門書(と言われるもの)を読んでいると、やさしい語り口の入門書が読めなくなることがありましたが、いつでも基本に立ち返ること、基礎を確認できることは大切です。初心忘れるべからず、生涯アマチュアを貫こうと思っているとすれば尚更です。
※といっても、読み進んでいくと、この本が単なる入門書ではないことがわかります。いや、入門書であるとはこの本にはどこにも書いていないのかもしれない。フォーカシングの力を、やさしい語り口で解き明かした、コメント欄にも出てくるように、スピリチュアルな自己探求を求めているあらゆる人の要求に応える、従来の心理学のカテゴリーには収まらない本です!(書きすぎたかな?)
※「やさしいフォーカシング」で検索すると出てくる秀逸な翻訳記事:フォーカシングはすごい!
「ジェンドリン哲学入門」 これも、何が入門なんだというような分厚さもさることながらハードな内容ですが、よく読むと、何かのイントロダクションだったり、抄訳が挟んであったりするので、そう書いておかなければならないのかもしれません。私が感じるのには、何にでも専門家(先達というと徒然草みたい)はいるものだと言うことです。 ジェンドリンの哲学が好きと言っても、それがどんなレベルのものなのかというのを先生たちに比較して格付けしてしまう自分がいます。
※その後、09・12・10 の時点で、「やさしいフォーカシング」は読了。「ジェンドリン哲学入門」を読み始めましたが、こちらは読み終えるかわかりません。全体で、プロセスモデルの解きほぐしの作業になっているのでしょうか。その入り口のあたりです。(第3章-1)
※「やさしいフォーカシング」原書の画像;
「フォーカシングの力 ―感情的な自己治癒への実践的な導き―」が、(辞書も引かず乱暴に訳しましたが)原題の直訳です。
※といっても、読み進んでいくと、この本が単なる入門書ではないことがわかります。いや、入門書であるとはこの本にはどこにも書いていないのかもしれない。フォーカシングの力を、やさしい語り口で解き明かした、コメント欄にも出てくるように、スピリチュアルな自己探求を求めているあらゆる人の要求に応える、従来の心理学のカテゴリーには収まらない本です!(書きすぎたかな?)
※「やさしいフォーカシング」で検索すると出てくる秀逸な翻訳記事:フォーカシングはすごい!
「ジェンドリン哲学入門」 これも、何が入門なんだというような分厚さもさることながらハードな内容ですが、よく読むと、何かのイントロダクションだったり、抄訳が挟んであったりするので、そう書いておかなければならないのかもしれません。私が感じるのには、何にでも専門家(先達というと徒然草みたい)はいるものだと言うことです。 ジェンドリンの哲学が好きと言っても、それがどんなレベルのものなのかというのを先生たちに比較して格付けしてしまう自分がいます。
※その後、09・12・10 の時点で、「やさしいフォーカシング」は読了。「ジェンドリン哲学入門」を読み始めましたが、こちらは読み終えるかわかりません。全体で、プロセスモデルの解きほぐしの作業になっているのでしょうか。その入り口のあたりです。(第3章-1)
※「やさしいフォーカシング」原書の画像;
「フォーカシングの力 ―感情的な自己治癒への実践的な導き―」が、(辞書も引かず乱暴に訳しましたが)原題の直訳です。
キャロライン・ブレイジャー「自己牢獄を超えて ―仏教心理学入門―」から
急ぎ足で読み進んできたが、それだけプロセスが停滞したりするという苦しい状態に陥ったりする。この本には、ノートに取ったり、瞑想に使ったりするといいなと思う智慧の言葉が満ち溢れていると思います。
もう終わりかけですが…
怒りについては、本当に心の中を言い当てられているような気がします。
※本日<2009・12・4>付け朝刊朝日新聞の天声人語に、記事に関連すると思う一節を見つけました。
※2 この本を最後まで読んでみようと思ったのは、最終章が最近特に関心を持っている死について書いているように思ったからでした。
※3 著者名でYouTubeを検索すると、インタビューを聞くことができます。(現時点で10件程度)
もう終わりかけですが…
多くの人々が、ストレスを軽減し気づきを増すために瞑想をしています。それは大変有益な修行です。それが有益であるために、おこなう活動がかならずしも正規の瞑想である必要はありません。わたしは、瞑想修行をしていない人に対しても、毎日五分静かに座り、心の中をよぎったすべての思考を書き留めるようにという示唆を与えるときがあります。脅迫的な思考パターンに捕らえられる傾向のある人にはこの簡単な作業でも大変有効な練習になります。それは洞察をもたらし、静かに坐るという日々の修行それ自体が心を落ち着ける効果を発揮するのです。335ページ瞑想の記録って長続きしないものです。中井先生の助言ふうに、「続かないものさ」といってやるのがいいのかもしれません。
怒りについては、本当に心の中を言い当てられているような気がします。
経典の中で述べられている怒りの実例を検討してみると、釈尊が怒りを放棄するように語るときには、たいていの場合、個人的なプライドかあるいはアイデンティティに対する執着に起因するような怒りについてであることがわかります。そういう怒りは、外から自分に加えられた批判に対する強い抵抗を引き起こし、その人が変わることをそれだけ困難にします。怒りや憤りに捕らえられている人は「修正されることを好まない人」として描かれています。多くの経典で、怒りは人に忠告を受け入れがたくさせるものであり、そのせいでスピリチュアルな生活における何らかの進歩を大いに妨げるものとして言及されています。自分の非を認めようとしないこと、あるいは自分が変わることを好まないということは、この種の怒りは自分で自分に火を注いでいるということです。ですからそれは怒りと絶望の有害なサイクルとなってしまうのです。(359ページ)最後のほうはもうぐうの音も出ない感じです。自己の権利を守るために有益であるといわれる「怒る力」は、同時にそういう側面を持っているのですね。むしろ、そういうのものでしかないといっているのでしょうか?
※本日<2009・12・4>付け朝刊朝日新聞の天声人語に、記事に関連すると思う一節を見つけました。
▼「怒りではなく『平和への祈り』こそが私のテーマだとやっと気づいた」と、のちに語っている。以来、出世作の「仏教伝来」からシルクロードをめぐる作品まで、その活躍に詳しい説明はいるまい平山郁夫さんの追悼をしているようでした。 「怒りではなく平和への祈りこそ」というのは、それこそ新聞で話題になるあれこれに、応用してほしいテーマではあります。しかし、新聞をにぎわす話題だけではなく、私の日常生活においても、そういう祈りを背景に持ち続けるかどうかで、人生の質というすぐには効果の見えないものだけでなく、いまここでの行動も変えていくのかしら?と思います。
※2 この本を最後まで読んでみようと思ったのは、最終章が最近特に関心を持っている死について書いているように思ったからでした。
※3 著者名でYouTubeを検索すると、インタビューを聞くことができます。(現時点で10件程度)
2009年11月27日金曜日
諸富祥彦「孤独であるためのレッスン」
諸富先生の「孤独であるためのレッスン」にも、フォーカシングが一章を割いて取り上げられています。
と、今書きたいのはそのことではありません。
諸富先生の孤独について書かれた後の著作(より実践的な側面に力を入れた)『「孤独」のちから』はすべて読んだのですが、最初に書かれた(より理論的な側面の強い)こちらのほうは、途中を端折るような読み方をしていました。拾い読みを積み重ねるようにして読んだので、どこが抜けているのかわからなかったのですが、今回フォーカシング関係の記述を見つけて手にとり、未読のところを探して読んでみました。
私は、諸富先生の本を読むと、読むだけではなくてそれを行動に移さざるを得ないような影響を受けます。こういう書き方はおかしくて、私は読んで感じたところを生きている諸側面で実行に移します。それが正しいのかどうかは良くわかりません。批評家の声を聞きだすと、不安になり、すぐに信頼を損ねます。それは、諸富先生に対してでしょうか。それとも、それをいいと感じる自分に対してでしょうか。
私は、フォーカシングを通して(それが正しい理解だとはいえませんが)からだの感覚(というよりフェルトセンス)を信頼すること、信じている自分は正しいということを学びました。それで、諸富先生の本を読んで感じるフェルトセンスは、信じてあげたい、信じていいと思うようになりました。
それは、「孤独」な道のように思います。共感してくれる人はいるかもしれませんが、私に関係付けられている古いしがらみの中では、そうではない人も出てくるし、その中に浸かっている私にとっては、際立って共同体から抜け出していく孤立感、孤独感を深める経験になるのではないでしょうか。それは、(谷川氏のインタビューの言葉を捩って、)社会「外」存在に押し出される経験なのではないかと思います。
私は、「生き方」の問題に取り組んでいるのだと思います。
信と不信を揺れ動き、行ったり来たりしながら、私は一筋の道を見出そうとします。
--
(この記事でも本から借りてきた言葉を使いましたが)フォーカシングに関する記述には、責任が持てません。公式な見解については専門家の著述などを参照してください。
と、今書きたいのはそのことではありません。
諸富先生の孤独について書かれた後の著作(より実践的な側面に力を入れた)『「孤独」のちから』はすべて読んだのですが、最初に書かれた(より理論的な側面の強い)こちらのほうは、途中を端折るような読み方をしていました。拾い読みを積み重ねるようにして読んだので、どこが抜けているのかわからなかったのですが、今回フォーカシング関係の記述を見つけて手にとり、未読のところを探して読んでみました。
私は、諸富先生の本を読むと、読むだけではなくてそれを行動に移さざるを得ないような影響を受けます。こういう書き方はおかしくて、私は読んで感じたところを生きている諸側面で実行に移します。それが正しいのかどうかは良くわかりません。批評家の声を聞きだすと、不安になり、すぐに信頼を損ねます。それは、諸富先生に対してでしょうか。それとも、それをいいと感じる自分に対してでしょうか。
私は、フォーカシングを通して(それが正しい理解だとはいえませんが)からだの感覚(というよりフェルトセンス)を信頼すること、信じている自分は正しいということを学びました。それで、諸富先生の本を読んで感じるフェルトセンスは、信じてあげたい、信じていいと思うようになりました。
それは、「孤独」な道のように思います。共感してくれる人はいるかもしれませんが、私に関係付けられている古いしがらみの中では、そうではない人も出てくるし、その中に浸かっている私にとっては、際立って共同体から抜け出していく孤立感、孤独感を深める経験になるのではないでしょうか。それは、(谷川氏のインタビューの言葉を捩って、)社会「外」存在に押し出される経験なのではないかと思います。
私は、「生き方」の問題に取り組んでいるのだと思います。
信と不信を揺れ動き、行ったり来たりしながら、私は一筋の道を見出そうとします。
--
(この記事でも本から借りてきた言葉を使いましたが)フォーカシングに関する記述には、責任が持てません。公式な見解については専門家の著述などを参照してください。
2009年11月25日水曜日
谷川俊太郎インタビュー「詩はどこへ行ったのか」
谷川俊太郎氏の詩が「フォーカシング事始め」に引用されていましたが、今日朝日新聞に出ていたインタビュー記事にも、フォーカシングを想起させる表現があったので引用させていただきます。
※ 詩のタイトルが思い出せなかったので書きませんでしたが、この記事によれば「きもち」というタイトルのようです。また、引用というよりその詩にもとフォーカシングを解説するというスタイルであることがわかります。
※2 諸富祥彦先生のフォーカシングの紹介には、「みみをすます」が引用されていると思います。
続いては若者へのメッセージです。
※その後、たびたび読んでいる不登校新聞でこんな記事を見つけました。 感激。「ふんだくって当然」というのは過激!!
※谷川俊太郎さんと工藤直子さんの対談を見つけました。この記事にも関連すると思う話が出たのでリンクします。
※ 詩のタイトルが思い出せなかったので書きませんでしたが、この記事によれば「きもち」というタイトルのようです。また、引用というよりその詩にもとフォーカシングを解説するというスタイルであることがわかります。
※2 諸富祥彦先生のフォーカシングの紹介には、「みみをすます」が引用されていると思います。
―詩情を探す、発見するノウハウを教えてもらえませんか。
「詩情は探すものではなくて、突然、襲われるようなものだと思うんです。夕焼けを見て美しいと思う、恋愛してメチャクチャになる、それも詩かもしれません。僕も詩を書くときは、アホみたいに待っているだけです。意味にならないモヤモヤからぽこっとことばが出てくる瞬間を」
続いては若者へのメッセージです。
―詩人体質の若者は現代をどう生きたらいいのでしょう。
「まず、『社会内存在』として自立する道を考えることを薦めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることが難しい。そうだなぁ、時々、若者が世界旅行に行って、帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、あれは、詩情に出会ったのかもしれないな」好きな詩人に言われると、頷いてしまいます。しかし、社会「内」存在として自立する道というのはどういう意味なのでしょうか。自立することが難しい世の中で、こういうことがよく言えるものだ。できる人はできるし、できない人はできないのではないだろうか。
※その後、たびたび読んでいる不登校新聞でこんな記事を見つけました。 感激。「ふんだくって当然」というのは過激!!
※谷川俊太郎さんと工藤直子さんの対談を見つけました。この記事にも関連すると思う話が出たのでリンクします。
2009年11月21日土曜日
夢とフォーカシング(こういちろうの心理学ノート)
こういちろうの心理学ノート
※フォーカシング入門について書いた前記事に引き続いて
Firefoxで範囲を選択して右クリック、次へ送る―Gmail―テキスト形式(書式がプレーンになる。)―全て印刷する(ここで一応範囲を選択しなおす):こんな作業をすると、両面印刷で(本来なら2~3枚のところ)表裏一枚に収まりました(だからどうした―紙の節約になります)。
※ちなみに、この記事はFirefoxでページを右クリック、「次へ送る―Blogger」で作成されています。
フォーカシング入門の第6回に位置づけられています。
※その日のうちに読み終わりました。7・8も同じように印刷します。(8が短いこともあり、これは一緒にして編集・印刷するつもりです。)
※フォーカシング入門7・8を、一枚2面に収めるのに改行を削除してしまいました。結局、この「フォーカシング入門」は、(ジェンドリンの)「夢とフォーカシング」に引き続いて「フォーカシング」を読み進むのに付き合ってくれ、訳文の指摘をするなどして(著作の)本文を読む際の注意を喚起する役割を果たしてくれたようなのでした。きっと、ブログを検索すると、この著作に関する言及がたくさんあるんだろうな~と思ったのですが…。(2009・11・23)
※フォーカシング入門について書いた前記事に引き続いて
Firefoxで範囲を選択して右クリック、次へ送る―Gmail―テキスト形式(書式がプレーンになる。)―全て印刷する(ここで一応範囲を選択しなおす):こんな作業をすると、両面印刷で(本来なら2~3枚のところ)表裏一枚に収まりました(だからどうした―紙の節約になります)。
※ちなみに、この記事はFirefoxでページを右クリック、「次へ送る―Blogger」で作成されています。
フォーカシング入門の第6回に位置づけられています。
※その日のうちに読み終わりました。7・8も同じように印刷します。(8が短いこともあり、これは一緒にして編集・印刷するつもりです。)
※フォーカシング入門7・8を、一枚2面に収めるのに改行を削除してしまいました。結局、この「フォーカシング入門」は、(ジェンドリンの)「夢とフォーカシング」に引き続いて「フォーカシング」を読み進むのに付き合ってくれ、訳文の指摘をするなどして(著作の)本文を読む際の注意を喚起する役割を果たしてくれたようなのでした。きっと、ブログを検索すると、この著作に関する言及がたくさんあるんだろうな~と思ったのですが…。(2009・11・23)
2009年11月19日木曜日
The Client's Client: The Edge Of Awareness
The Client's Client: The Edge Of Awareness
このコメントで教わったジェンドリンの文書。
昨夜、寝る前に読み終わってしまった(汗)
Section1のみ。
※ Section2も印刷しました。6枚12面だったかな?
※ 09/12/14の時点で、読むのを中断したまま。プロセスモデルの既に印刷したものを読んだ後になるだろう。
以下、無関係な記述が続きます。
※ 「フォーカシング」の読書中に図書館で見つけた本「思想家 河合隼雄」を先に読み終えたという話です。臨床心理学者の河合隼雄先生の、思想家としての側面を、中沢新一、鷲田清一氏などの論考が浮かび上がらせていきます。それは、奇しくも、今読んでいる「ジェンドリン哲学入門 フォーカシングの根底にあるもの」と重なるように思いました。臨床心理学の中でよりも、現代思想の中で影響力を残していくように見えるユング心理学。その評価が臨床のユング心理学を支えているかのようにも見えます。(臨床をしないでものをしゃべっているという批判を目にしたときは驚いたけど)
一方で、哲学者であるジェンドリンの思想は、革新的であるがゆえに、ユングの理論が宗教学などに影響を与え発展させていったようには受け取られない。どうしてだろう?
(改行―続きを読む―を削除しました。)
新刊コーナーにおいてあった「臨床家 河合隼雄」を一息に読んだのを弾みに、ジェンドリンの「フォーカシング」も第6章まで読み進みました。ジェンドリンが、フォーカシングだけでしないでくださいと書いているので、私もフォーカシングを離れていることに罪悪感を覚える必要がない?一方で、フォーカシングはあらゆることに応用できるので、翻訳にも、読書にも、そのほかのあらゆることに、学んだことを生かすことができる。
高校生のときから読んでいた河合心理学の本なので、読書のスピードはフォーカシング関係の文書を読むときとは比較にならないようです。しかし、河合隼雄のカウンセリング論を読むときに、フォーカシングの(あるいはロジャースの)アプローチを重ね合わせて読んでいる自分に気づきます。高校生のとき、こんなカウンセリングを受けてみたいと思っていた自分ですが、いまは「フォーカシング」を読みながら、こんなセッションを受けてみたいと思っています。
そういう(本を読んであれこれと考えている)自分は、変わっていないなぁと思います。本で読んだとおりのことが体験できるかどうかは別なんだよなぁと感じています。
「思想家 河合隼雄」
読んだ順序
[序論] 河合隼雄は思想家である・・・・・・中沢新一×河合俊雄
[論考]
河合隼雄と言葉・・・・・・養老孟司(聞き手・河合俊雄)
中空と鬼っ子・・・・・・河合俊雄
あいまいの記憶・・・・・・中沢新一
落としどころについて―河合隼雄における《臨床》と《対話》・・・・・・鷲田清一
昔話と夜、または数をめぐる冒険・・・・・・赤坂憲雄
と、ここにきて、後半の数をめぐる難しい冒険で挫折しました(爆)
[記録]を読み落としていることに気づきました。
※「挫折した数をめぐる冒険」、「アッシジの聖フランチェスコと日本の明恵」というタイトルの(2004年バルセロナ第16回国際分析心理学大会講演録である)[記録]を読み、その勢いで[資料編]用語解説まで読みました(2009・11・20)。「夢を見ている場合じゃない」いまこそ、夢の導き、その創造力、次なるステップを導き出す力を活かすときだと感じさせられました。
難しく感じられた数の冒険も、若手?の書いた用語解説も面白かったなぁ。
このコメントで教わったジェンドリンの文書。
昨夜、寝る前に読み終わってしまった(汗)
Section1のみ。
※ Section2も印刷しました。6枚12面だったかな?
※ 09/12/14の時点で、読むのを中断したまま。プロセスモデルの既に印刷したものを読んだ後になるだろう。
以下、無関係な記述が続きます。
※ 「フォーカシング」の読書中に図書館で見つけた本「思想家 河合隼雄」を先に読み終えたという話です。臨床心理学者の河合隼雄先生の、思想家としての側面を、中沢新一、鷲田清一氏などの論考が浮かび上がらせていきます。それは、奇しくも、今読んでいる「ジェンドリン哲学入門 フォーカシングの根底にあるもの」と重なるように思いました。臨床心理学の中でよりも、現代思想の中で影響力を残していくように見えるユング心理学。その評価が臨床のユング心理学を支えているかのようにも見えます。(臨床をしないでものをしゃべっているという批判を目にしたときは驚いたけど)
一方で、哲学者であるジェンドリンの思想は、革新的であるがゆえに、ユングの理論が宗教学などに影響を与え発展させていったようには受け取られない。どうしてだろう?
(改行―続きを読む―を削除しました。)
新刊コーナーにおいてあった「臨床家 河合隼雄」を一息に読んだのを弾みに、ジェンドリンの「フォーカシング」も第6章まで読み進みました。ジェンドリンが、フォーカシングだけでしないでくださいと書いているので、私もフォーカシングを離れていることに罪悪感を覚える必要がない?一方で、フォーカシングはあらゆることに応用できるので、翻訳にも、読書にも、そのほかのあらゆることに、学んだことを生かすことができる。
高校生のときから読んでいた河合心理学の本なので、読書のスピードはフォーカシング関係の文書を読むときとは比較にならないようです。しかし、河合隼雄のカウンセリング論を読むときに、フォーカシングの(あるいはロジャースの)アプローチを重ね合わせて読んでいる自分に気づきます。高校生のとき、こんなカウンセリングを受けてみたいと思っていた自分ですが、いまは「フォーカシング」を読みながら、こんなセッションを受けてみたいと思っています。
そういう(本を読んであれこれと考えている)自分は、変わっていないなぁと思います。本で読んだとおりのことが体験できるかどうかは別なんだよなぁと感じています。
「思想家 河合隼雄」
読んだ順序
[序論] 河合隼雄は思想家である・・・・・・中沢新一×河合俊雄
[論考]
河合隼雄と言葉・・・・・・養老孟司(聞き手・河合俊雄)
中空と鬼っ子・・・・・・河合俊雄
あいまいの記憶・・・・・・中沢新一
落としどころについて―河合隼雄における《臨床》と《対話》・・・・・・鷲田清一
昔話と夜、または数をめぐる冒険・・・・・・赤坂憲雄
と、ここにきて、後半の数をめぐる難しい冒険で挫折しました(爆)
[記録]を読み落としていることに気づきました。
※「挫折した数をめぐる冒険」、「アッシジの聖フランチェスコと日本の明恵」というタイトルの(2004年バルセロナ第16回国際分析心理学大会講演録である)[記録]を読み、その勢いで[資料編]用語解説まで読みました(2009・11・20)。「夢を見ている場合じゃない」いまこそ、夢の導き、その創造力、次なるステップを導き出す力を活かすときだと感じさせられました。
難しく感じられた数の冒険も、若手?の書いた用語解説も面白かったなぁ。
2009年11月18日水曜日
語られることを望んでいる物語
語られることを望んでいる物語: "語られることを望んでいる物語
The Story that wants to be told
Joyce Kornblant
翻訳:小坂淑子 監訳:増田實"
印刷しました。(はてなブックマーク[あとで読む]に保存してあったもの)
[この投稿は、(多分Firefoxのアドオン)右クリックで「次に送信―Blogger」によって作成されました。]
※読了。
The Story that wants to be told
Joyce Kornblant
翻訳:小坂淑子 監訳:増田實"
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