2009年4月8日水曜日

まとめ2 (9-12)

私が主張したい二つの主要な点があります。最初のひとつは、あなたが何もあるものはないのだと理解する場合に、生き物としてある種の概念を必要とするということです。われわれは通常それについて考えるところのあらゆるものがあります。(あとに)残るものは何もありません。それは常にあり、そしてまた将来へ含むのです。それはあり‐かつ‐包み込む。それは決してただあるのではない。それはいつもあり、かつまだ起こっていない何かの含みを持っている。そしてそのまだ起こっていない何かは十分に組織化されていません。それはとてもとても、(フロイトの言ったことですが)“多重に決定された”ものです。それは、まったくあいまいなものではありません。それはとてもとてもすばらしく、組織化される前なのです。そしてそれにもかかわらず、それは開いてもいます。それはまだ起こっていないのです。そして起こったことだけが、構造にとどめられるに過ぎないのです。

それで、私の主な論点はここにあるのです。何も「存在する」(no “is”)ことはない。それは常に存在し、且つ含んでいるのです。次に、環境から離れて身体はありません。身体はその環境において、その環境から、自身を生み出すのです。「環境」と「身体」の間に、ただ人間だけが、区別をつけるのです。そしてそれはとても重要な区別です。それはわれわれの科学や化学や神経学、そしてとても重要であり、とても有益な、そして物を作るあらゆることに役立つのです。しかし生きているものはものを組み立てたのではなく、部品‐から‐作られるのではありません。生き物はわれわれとわれわれが見るものやわれわれが働きかけるものとの間の分離によって作られるのではないのです。生きているものはいつもすでに、身体と環境の両方です。

それで、存在する(“is.”)ものはありません。いつも存在し‐かつ‐(~を)含んでいる。そして身体もありません。常に身体‐と‐環境です。それが含む次の出来事はひとつの・・・私の手を見てください。(ジーン笑う)それでもう十分です。(ジーンと聴衆笑う。)それは前進しています。そしてそれはここに現れ出ています。

それで、われわれは身体についてわれわれが持っている概念を、用い、尊重するのみならずまた変えることもしなければなりません。空間と時間を埋(うず)めるのは構造ではありません。われわれはそれを、そんなふうに(that way)考える必要があります。それで、われわれはそれを分析することができますし、医学と化学と神経学とあらゆるとても重要なものを持ちえるのです。しかし身体は環境に、空間に、あなたがたが私がここに座っているのを見るようにただ「存在する」ある構造ではありません。からだは、私が現われ出てここであなたに話しかけているところです。そしてそこでは私はずっと現れているのです。そしてそれ以外に、私の身体が、それからちょうど今そうであるようにあることはないでしょう。もし私が身体―環境統一体(unity)でないならば、そしてもし私が先へ(将来へ、~を)含んでいないならば、言葉は望み通りに生まれでないでしょう。それで、私の言葉は生まれるのです。

ときどきあなた方はどこから言葉が生じるのかな、そしてそれらがどのように生じるのかなと思うはずです。(一般の)人々は十分に好奇心を持ちません。彼らは口を開き、そして言葉が出てくるのです。

[聴衆が笑う]

ジェンドリン:どうしてかって?

[笑い声と拍手]

ジェンドリン:そしてそのときそれらが出てこないなら我々は何をするでしょうか?ええ、我々は「すみません、私はそれを意味していません。少し待ってください。」と言います。そしてそのとき我々は何をするだろう?ええ、我々は待ち、望み、そしてそれからいくらかもっと言葉が出てきて、そして望みどおりにそれらはうまくいく。OK、それでそれらは私の二つのポイントであります。「ある」ものはなく、そして「身体」もありません。

[聴衆から笑い声]

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