2009年12月9日水曜日

アン・ワイザー・コーネル「やさしいフォーカシング 自分でできるこころの処方箋」

1999年に出た本だというので、驚いてしまった。

そういえば、池袋のリブロで背表紙を眺めていたこと(そのワン・シーン)を思い出す。それは、だから、そのころの出来事なんだ。よく精神世界とか心理の棚の前で、立ち読みして過ごした。
(浪人していたのでよほどのことがない限り気になる本でも買えなかったなぁ。)

こうして10年経って手元にやってきてくれたことにありがとうといいたいです。そして不思議な感じがする。私がこうして読むまでに、それだけの時間が必要だったのかということ。

 付箋をつけたところをいくつか書き抜いてみたい。

・論理的な考えが登場しているというサインは他にもあります。「と思います」とか「多分」とか「に違いない」といっていることに気づいたら、頭で考えていると思われます。こういう言い回しは、答えがフェルトセンスからきたものではないことを示しています。からだの内側に注意を戻して、もう一度質問するか、あるいは「頭で考えた」答えを、からだの内側に持っていって、「これは納得できるかな」と尋ねてみてもいいですね。…(後略)<81ページから>
「と思います」というのが論理的な考えが登場しているというサインというのが意外に思った(とここでも私自身が「思う」と書いている。)。「思う」という言葉は「感じる」というより「思考(思うという漢字が使われている…)」に近い、というよりそのものなんだとこれを書いていて感じた(お、これは「感じた」だ…)。「多分」も「に違いない」も(後者は断定を避けるよう修正に努めている)私が使いがちな言葉です。

確かに、ゆっくりとしか変化しないこともあるし、辛抱強さが必要だということも事実です。しかし、これら「難しい」クライエントのプロセスが痛ましいほどに変わらないのは、彼らが変化の源となるものに触れていないことが多いからです。彼らは頭で知性化したり分析します。あるいは、感情にとらわれて同じところをぐるぐる回ってばかりいます。(170ページ)

クライエントが自分の感情に触れていないときは、心理治療での動きや変化はなかなか起こりません。フォーカシングは、感情に敏感になるよう促す方法にもなります。今までに述べてきた提案を二・三試してみると、この種の援助が必要な人がわかると思います。感情が何も出てこないような人です。(180ページ)

こうして自分が何気なく付箋を残したままにするところを見ても(基本的には、後で戻ってこれるようにする目印として、読み終わったところに貼ります。)、どんなことを自分が問題と感じているのかわかります。そして、そんなことを取り上げるのには実際にフォーカシングのセッションを受けるのが一番いいのだと感じます。

※ブログを書くときの語尾は、基本的に「思います」になることに気づきました。こうした内容を取り上げた記事なので、せめて今回だけは、「思います」を使うのを遠慮しようと「思いました(ほら、やっぱり)」。

アンのホームページに、この本の原著のイントロダクションのPDFを見つけました。グーグルドキュメントによるプレビュー