2009年11月27日金曜日

諸富祥彦「孤独であるためのレッスン」

諸富先生の「孤独であるためのレッスン」にも、フォーカシングが一章を割いて取り上げられています。

と、今書きたいのはそのことではありません。

諸富先生の孤独について書かれた後の著作(より実践的な側面に力を入れた)『「孤独」のちから』はすべて読んだのですが、最初に書かれた(より理論的な側面の強い)こちらのほうは、途中を端折るような読み方をしていました。拾い読みを積み重ねるようにして読んだので、どこが抜けているのかわからなかったのですが、今回フォーカシング関係の記述を見つけて手にとり、未読のところを探して読んでみました。

私は、諸富先生の本を読むと、読むだけではなくてそれを行動に移さざるを得ないような影響を受けます。こういう書き方はおかしくて、私は読んで感じたところを生きている諸側面で実行に移します。それが正しいのかどうかは良くわかりません。批評家の声を聞きだすと、不安になり、すぐに信頼を損ねます。それは、諸富先生に対してでしょうか。それとも、それをいいと感じる自分に対してでしょうか。

私は、フォーカシングを通して(それが正しい理解だとはいえませんが)からだの感覚(というよりフェルトセンス)を信頼すること、信じている自分は正しいということを学びました。それで、諸富先生の本を読んで感じるフェルトセンスは、信じてあげたい、信じていいと思うようになりました。

それは、「孤独」な道のように思います。共感してくれる人はいるかもしれませんが、私に関係付けられている古いしがらみの中では、そうではない人も出てくるし、その中に浸かっている私にとっては、際立って共同体から抜け出していく孤立感、孤独感を深める経験になるのではないでしょうか。それは、(谷川氏のインタビューの言葉を捩って、)社会「外」存在に押し出される経験なのではないかと思います。

私は、「生き方」の問題に取り組んでいるのだと思います。

信と不信を揺れ動き、行ったり来たりしながら、私は一筋の道を見出そうとします。

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(この記事でも本から借りてきた言葉を使いましたが)フォーカシングに関する記述には、責任が持てません。公式な見解については専門家の著述などを参照してください。

2009年11月25日水曜日

谷川俊太郎インタビュー「詩はどこへ行ったのか」

谷川俊太郎氏の詩が「フォーカシング事始め」に引用されていましたが、今日朝日新聞に出ていたインタビュー記事にも、フォーカシングを想起させる表現があったので引用させていただきます。
※ 詩のタイトルが思い出せなかったので書きませんでしたが、この記事によれば「きもち」というタイトルのようです。また、引用というよりその詩にもとフォーカシングを解説するというスタイルであることがわかります。
※2 諸富祥彦先生のフォーカシングの紹介には、「みみをすます」が引用されていると思います。
―詩情を探す、発見するノウハウを教えてもらえませんか。
「詩情は探すものではなくて、突然、襲われるようなものだと思うんです。夕焼けを見て美しいと思う、恋愛してメチャクチャになる、それも詩かもしれません。僕も詩を書くときは、アホみたいに待っているだけです。意味にならないモヤモヤからぽこっとことばが出てくる瞬間を



続いては若者へのメッセージです。
―詩人体質の若者は現代をどう生きたらいいのでしょう。
「まず、『社会内存在』として自立する道を考えることを薦めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることが難しい。そうだなぁ、時々、若者が世界旅行に行って、帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、あれは、詩情に出会ったのかもしれないな」
好きな詩人に言われると、頷いてしまいます。しかし、社会「内」存在として自立する道というのはどういう意味なのでしょうか。自立することが難しい世の中で、こういうことがよく言えるものだ。できる人はできるし、できない人はできないのではないだろうか。

※その後、たびたび読んでいる不登校新聞でこんな記事を見つけました。 感激。「ふんだくって当然」というのは過激!!
谷川俊太郎さんと工藤直子さんの対談を見つけました。この記事にも関連すると思う話が出たのでリンクします。