2010年2月27日土曜日

「はじめてのフォーカシング」セミナー雑感

 私は大切な人=私に出会うつもりでセミナーに参加した。だから、フォーカシング体験を通して出会った私、フェルトセンスなどについて(限定して)記録を残しておきたいと思います。
 何故、私はセミナーでそれをシェアすることができず、こうしてブログという場で書き残すのでしょうか。私はセミナーでお話できることはお話し、そしてこうしてブログに書いても構わないほどの私的な(そしてセミナーに限定されない)体験は、こうしてブログで分かち合おうと思います。

私のフォーカシング体験は、リスナーにも恵まれ(その反面、対等ではない関係に申し訳なさと引け目も感じ遠慮もしたのですが)危うく涙をこぼしてしまいそうな、日の当たらない、抑圧された、人の支えなしでは触れることさえ恐れていた私のからだの感覚に気づくことを可能にしました。私の抵抗もあり、十分とはいかないものの、君がそこにいるんだね、そして話しかけられるのを待ち望んでいたそれに挨拶し、また会いに来るからねということはできました。

当日、セミナー開始後に、講師の講義部分に限って録音がOKであるという説明がありましたが、質問をしたのは私ではなく、別の場所にあった録音機能のついた電子機器を取りにいく気にはなれませんでした。しかし、後でクリアリング・ア・スペースのガイダンスなど、レコードできた部分を聞き直してみると、すごくいいです。私は、録音もメモも録りたいのですが、それによって脅かされると感じたり、不快に感じる人がいるかもしれないと想像することはできます。また、私自身も、それによって抜け落ちていくものがあるかもしれないと感じます。講義部分にも、体験実習があり、その分かち合いの部分は個人的なものです。(録音はしていません)しかし、その部分だけは録音していませんなどと言っても、どうして信用してもらえるでしょうか。

  • フォーカシングは瞑想ではないことを体験的に学んだ。目を閉じて瞑想状態に入りやすい(むしろそういう訓練をしている)自分に気づいた。 まさにフォーカシングの初学者の姿である。フォーカシングへの誘いに、抵抗する自分。普段の習慣を打ち破っていくことになると感じています。そして、それはわくわくすることでもあります。何が出てくるのか分からない宝箱のような。リソースに触れていくような。そこには私がいます。わたしの中の私に出会うこと。それが、フォーカシングを通して私が何気なく求めていたものではないかと感じています。
  • 当日のワークのシェア(その場で話せなかったこと)
    • 「苦手な人、好きな人のフェルトセンスを感じて、その違いに気づく練習」
      • 苦手な人は、近しい人。近しい人の苦手な部分を思い浮かべた。身近にいるということは、いろいろなことを許す関係。受け入れていく。それでも残っている苦手な部分が意識に上ってきた。
      • 好きな人は、いま距離を置いている人(一人)を思い浮かべた。ギュッとする感じ。様々な陰性感情を抱きながら距離を置いている私の底に、「好き」という感情が隠されていた。こうして書いてみると、それは不思議なことでもなんでもないのかなと感じる。どんなふうに感じるか=胸がドキドキする。思春期の男の子のような感情が出てきた。それを大切にしよう。心の奥底に秘めて…
      • 苦手な人、好きな人のフェルトセンスを感じてその違いに気づく:苦手な人にはギュッとする、締め付けられる感じがする。その反対は、広がっていく、ほんわかする、解きほぐされる感じという気がするが、わたしは胸の高鳴りという感じだった。もっとからだを感じてみると面白いものが出てくるかもしれない。
  • クリアリング・ア・スペース
    • からだを解きほぐしてたんを吐き(それを飲み込んでしまい、すっかり気分がげっそりする。)、目を閉じて瞑想状態に入ってしまった私。(後でガイダンスを聞きなおすと、瞑想状態に入ることについても注意されていた。)目を覚まして気がかりなことを白紙に列挙することでワークに変えることにしたが、やはり、それは講師のガイダンスになる「クリアリング・ア・スペース」とは違う気がする。はじめは増井武士氏の新書「悩む心の整理学」 で知ったと思うこの技法を、ようやく体験する機会に恵まれたというだけでよしとしよう。私は思った以上に技法に抵抗を感じるらしい。そういうからだの知恵を信頼しよう。思わぬトラウマが障壁となっているのかもしれない。何より、そうして自分の心や体の感じに思った以上に、まったく耳を傾けてこなかったことが露になってしまうような感じがする。能書きではない体験学習の世界世界への参入。私はそれを前に足が竦んだ…。
  • フォーカシングをやってみる
    • これについてはあまり書きたくない。からだの感じを確かめてみようというガイドの誘いに抵抗して持ち時間を浪費する。足先から頭のてっぺんをとおり、指先に降りてくるらしいからだ調べも、私のフェルトセンスが引き止めるので最後まで行かなかったが、それで十分だった。私は私のからだに注意を向けるということを、初めて人に支えられてやり遂げた。どうしてこれが、フォーカシングという枠組みを通してしかできないのだろうか?このからだ調べの最初、窮屈な靴を履いている感じがしていたが、最後私の口から、「しっとりと地面に足の裏がついていく感じがします」 という言葉がこぼれていた。今、セミナーが終わって一週間だが、このしっとりと地面に足の裏がついている感じがこの言葉とともに思い出されてくる。それが、私のであったからだの感覚、セミナーで得られた大きな収穫の一つであった。(すべてであるというのは言い過ぎてであると感じるので・・・)
    • もう一つ、「背中が曲がっている」というのがあった。わたしの中の何かが、背筋は伸びていなくてはならないといっているのを感じる。でも一方で、それ自身はリラックスして、休憩している状態であると感じる自分もいる。知らず知らず理想の状態にからだを当てはめようとする自分。からだはそれを脱ぎ、背骨をゆったりさせることで休息しているのです。わたしの意識の目を盗んで・・・わたしの意識がそれほど厳しく監視しないでいる間に・・・。
  • どこかでフォーカシングにメディスンを求めていた私は、このワークを通して副作用を受け取っても仕方のないことだと理解している。自分を治したいなどと操作的なことを考えていると、からだに負担をかけるように感じる。 ロジャーズの受容的な態度から出てきている技法を、自分を操作するために使おうとするなんて愚かなことをするのが自分なんだなと感じる。自分をそのまま受け止める。あるがままに。これを書いていてそんなことを感じる。これがはじめてのフォーカシング体験です。恥ずかしながら。