2009年12月4日金曜日

キャロライン・ブレイジャー「自己牢獄を超えて ―仏教心理学入門―」から

急ぎ足で読み進んできたが、それだけプロセスが停滞したりするという苦しい状態に陥ったりする。この本には、ノートに取ったり、瞑想に使ったりするといいなと思う智慧の言葉が満ち溢れていると思います。

もう終わりかけですが…

多くの人々が、ストレスを軽減し気づきを増すために瞑想をしています。それは大変有益な修行です。それが有益であるために、おこなう活動がかならずしも正規の瞑想である必要はありません。わたしは、瞑想修行をしていない人に対しても、毎日五分静かに座り、心の中をよぎったすべての思考を書き留めるようにという示唆を与えるときがあります。脅迫的な思考パターンに捕らえられる傾向のある人にはこの簡単な作業でも大変有効な練習になります。それは洞察をもたらし、静かに坐るという日々の修行それ自体が心を落ち着ける効果を発揮するのです。335ページ
瞑想の記録って長続きしないものです。中井先生の助言ふうに、「続かないものさ」といってやるのがいいのかもしれません。

怒りについては、本当に心の中を言い当てられているような気がします。
経典の中で述べられている怒りの実例を検討してみると、釈尊が怒りを放棄するように語るときには、たいていの場合、個人的なプライドかあるいはアイデンティティに対する執着に起因するような怒りについてであることがわかります。そういう怒りは、外から自分に加えられた批判に対する強い抵抗を引き起こし、その人が変わることをそれだけ困難にします。怒りや憤りに捕らえられている人は「修正されることを好まない人」として描かれています。多くの経典で、怒りは人に忠告を受け入れがたくさせるものであり、そのせいでスピリチュアルな生活における何らかの進歩を大いに妨げるものとして言及されています。自分の非を認めようとしないこと、あるいは自分が変わることを好まないということは、この種の怒りは自分で自分に火を注いでいるということです。ですからそれは怒りと絶望の有害なサイクルとなってしまうのです。(359ページ)
最後のほうはもうぐうの音も出ない感じです。自己の権利を守るために有益であるといわれる「怒る力」は、同時にそういう側面を持っているのですね。むしろ、そういうのものでしかないといっているのでしょうか?

※本日<2009・12・4>付け朝刊朝日新聞の天声人語に、記事に関連すると思う一節を見つけました。
▼「怒りではなく『平和への祈り』こそが私のテーマだとやっと気づいた」と、のちに語っている。以来、出世作の「仏教伝来」からシルクロードをめぐる作品まで、その活躍に詳しい説明はいるまい
平山郁夫さんの追悼をしているようでした。 「怒りではなく平和への祈りこそ」というのは、それこそ新聞で話題になるあれこれに、応用してほしいテーマではあります。しかし、新聞をにぎわす話題だけではなく、私の日常生活においても、そういう祈りを背景に持ち続けるかどうかで、人生の質というすぐには効果の見えないものだけでなく、いまここでの行動も変えていくのかしら?と思います。

※2 この本を最後まで読んでみようと思ったのは、最終章が最近特に関心を持っている死について書いているように思ったからでした。

※3 著者名でYouTubeを検索すると、インタビューを聞くことができます。(現時点で10件程度)

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