2009年12月4日金曜日

私の読書リスト(フォーカシング関係書籍)★

「やさしいフォーカシング」 やさしいフォーカシングと銘打った入門書ですが、原書のタイトルにはそのようなニュアンスはないみたいです。「フォーカシングの力」を紹介するといったら、やっぱり入門書になるのかな。専門書(と言われるもの)を読んでいると、やさしい語り口の入門書が読めなくなることがありましたが、いつでも基本に立ち返ること、基礎を確認できることは大切です。初心忘れるべからず、生涯アマチュアを貫こうと思っているとすれば尚更です。
 ※といっても、読み進んでいくと、この本が単なる入門書ではないことがわかります。いや、入門書であるとはこの本にはどこにも書いていないのかもしれない。フォーカシングの力を、やさしい語り口で解き明かした、コメント欄にも出てくるように、スピリチュアルな自己探求を求めているあらゆる人の要求に応える、従来の心理学のカテゴリーには収まらない本です!(書きすぎたかな?)
 ※「やさしいフォーカシング」で検索すると出てくる秀逸な翻訳記事:フォーカシングはすごい!

「ジェンドリン哲学入門」 これも、何が入門なんだというような分厚さもさることながらハードな内容ですが、よく読むと、何かのイントロダクションだったり、抄訳が挟んであったりするので、そう書いておかなければならないのかもしれません。私が感じるのには、何にでも専門家(先達というと徒然草みたい)はいるものだと言うことです。 ジェンドリンの哲学が好きと言っても、それがどんなレベルのものなのかというのを先生たちに比較して格付けしてしまう自分がいます。

※その後、09・12・10 の時点で、「やさしいフォーカシング」は読了。「ジェンドリン哲学入門」を読み始めましたが、こちらは読み終えるかわかりません。全体で、プロセスモデルの解きほぐしの作業になっているのでしょうか。その入り口のあたりです。(第3章-1)

※「やさしいフォーカシング」原書の画像;

「フォーカシングの力 ―感情的な自己治癒への実践的な導き―」が、(辞書も引かず乱暴に訳しましたが)原題の直訳です。

8 件のコメント:

こういちろう さんのコメント...

 お久しぶりです。

 「やさしいフィーカシング」は、日本において、フォーカシングの関心も持つ人が最初に手にした本として、「圧倒的な」と申し上げていいいシェアを持っています。

 現在でも、「フォーカシングについて何で知りましたか?」とおいでの方にお尋ねすると、過半数以上がこの本ですよ。

 それどころか、以前、日本フォーカシング協会のウェブサイトの管理をやらせていただいていた当時、私はすべてのネット入会希望者(私が事務局にそうした情報を転送していたのですね)について、入会申し込みフォームの「フォーカシングについて何でお知りになりましたか」欄を閲覧できる立場にいました。ここでも、3分の2誓いという圧倒的シェアを持っていました。

 この種の本には珍しく、縦書きですし、なにより冒頭の「フォーカシングって何?」の章の事例が、読者の心にvividに響くのだと思います。

 アンさんの技法を几帳面に一から学ぼうと思ったら、今でも「入門マニュアル」に勝るものはないと確信していますが、この「やさしいフォーカシング」を読んでいると、その背景に、ジェンドリン自らの「フォーカシング」での書きぶりと非常に二重写しになるものを感じるのですよ。

 それにしても「やさしいフォーカシング」と、原題の"Power of Focusing"では全然響きが違うし、原書の表紙から受ける印象も、邦訳の何か「かわいらしい」雰囲気よりは、スピリチュアル系の本に近い印象を受ける点が面白いですね。

 邦題のつけ方は時として難しい。「インタラクティブ・フォーカシング・セラピー」に、邦訳で「カウンセラーの力量アップのために」という副題をつけたのはちょっとどうだったかなと思っています。だって、内容的には、バリバリのカップル・セラピーの本という方がふさわしいから。このあたりが、インタラクティブ・フォーカシングが現場での適用に日本ではなかなか発展しない大きな鍵があると思います。

 持論を言えば、「仲間内で癒しあう」ためだけの道具にフォーカシングをとどめちゃ駄目ですよ。

 私に言わせれば、日本のフォーカシングコミュニティの少なからぬ部分は、「場の安全」という名のもとに、素朴かつ純粋にフォーカシングに関心を持った新たな人たちを、ムラ社会的に「漠然とした違和感」(?)に基づき排除する困った構造を持っている気がします。フェルトセンスをそんなふうに使うなといいますか、キャパが足りない。

 アンさんの技法ふうにいえば、そういう人たちを「共にいられる」外的関係性(?.....もちろん、"inner relationship"のもじり)を築けなきゃ。

 欧米のフォーカシング・ピープルはもっとあっけらかんなまでにオープンな人たちが多い気がします。

 日本では大学というアカデミズム中心にフォーカシングが展開しすぎた弊害があるのだと思っています。

masaru さんのコメント...

こういちろうさま

わたしは、この本を「フォーカシング」を読んだあとに続けて読み始めたので、そういう意味でもこの二作を重ね合わせたというか、読み進んでいるうちに「フォーカシングの」の章立てが思い浮かぶようなところがありました。(「フォーカシングがうまくいかないときに」などから。)

まだ、読み終わらない段階で記事を書いたのがまずかったと思うのは、読みはじめにこの記事で書いたようなタイトルに突っ込みを入れる気持ちが今はなくなって(どうでもよくなって)いるからです。しかし、原題については、本当にそのとおりですね。

私は、最初にフォーカシングというものに触れたのが、(奇しくも「やさしいフォーカシング」と同じころに出された)「セラピープロセスの小さな一歩」で、難解な哲学(?)(人格変化の一理論)、理論(体験過程療法)に頭がくらくらしつつ、詩のような体裁に訳されている心に染み入る冒頭の講演には、その後ずーっと心を動かされてきました。

しかし、フォーカシングのプラクティカルな側面の入門書を読み始めて感じた、もっと早く知りたかったかもという気持ちも、時間が経つにつれてどうでもよくなってきています。フォーカシングの根底にあるものに目を開かされて、よかったのかもしれないなと。

私がこのブログを非公開で始め、フォーカシングやジェンドリンを前面に出さずに置こうと思ったのは、私自身がフォーカシングやジェンドリンをひとつのブランドと考えていて、それを自分の私的なブログの権威付けにしたくなかった(何の関係もないわけだし、これは翻訳ノートだし。翻訳を進めるための助走みたいなものだし。)のと、お仕事でフォーカシングを使っておられる人々(プロフェッショナル)への遠慮がありました。だんだんずうずうしくなってこんなふうになってしまったのですが(どこかでブログは公開しないと意味がないと思っている)、どこかで自分を異分子で、和を乱す可能性のある存在であることは感じています。

こういちろう さんのコメント...

私も、旧村瀬訳の「人格変化の一理論」あってのこういちろうです(^^)

あれを本当に読解できないまま、技法としてのフォーカシングが広まったのがそもそもの間違い・・・

でも、今や、私の同期にあたる福大の田村さんをはじめとして、アカデミズムの世界でも、この論文を「本当に深く」理解している層が出ていてきています(^^)

masaru さんのコメント...

あの本で一番はやっぱり「人格変化の一理論」ですかね。村瀬孝雄先生の旧訳はウェブで公開されているんでしたっけ。

※探してきたので貼り付けます。
http://www.focusing.org/jp/person_jp.html

私は、英文も邦訳ももう一度しっかり読もうと積んでおいてあるのですが、別の本を読んでいるので、まだ読み直すのは先になりそうです。

私は、臨床に限らず、大学というところ自体に憧れとアレルギーを感じています。(自己矛盾?)

こういちろう さんのコメント...

それでいいんですよ。msujさんのように、敢えて「自由な」立場を選択する人がいる方が。

私は、ある意味で、生涯、体験過程理論とフォーカシング技法に関して、生涯「アマチュアリズム」を極め続けるつもりです。

 その結果としてアカデミズムともタイマンも張る。それは、単にジェンドリンとフォーカシングに憧れただけの「一読者」だった自分の、生涯を賭けた、プロフェッションリズムへの抗議行動のつもりです。

 その結果として、生涯「アマチュア」のままで「プロ」の世界に割り込めるだけ割り込むことにチャレンジするという、大博打をかけ続ける。

 フロイトですら、正統派精神医学への「対抗治療文化」として位置づけるのが適切であると中井久夫先生は語っています。

 そして、ジェンドリン自身が、一種のニュー・レフトの申し子、ネクタイを締めて公の場に立つことをしない人だし、欧米のフォーカシング・ピープルの非常に多くは、公民権運動や反体制運動に身を挺した経歴を持つ人たちであるということ。

 ほんとうは、アンチ・アカデミズムの流れなんですよね。フォーカシング・ピープルそのものが。

 日本にいると、そのことが見えてこない。

こういちろう さんのコメント...

そうそう、ウェブ上で公開されている「人格変化の一理論」の旧村瀬訳の素晴らしいところは、ジェンドリン自らが最終的に決定稿からはカットした、フロイト、サリヴァン、ロジャーズの人格理論との比較論の部分(TFIのOnlineライブラリでも原文読めません!)がそのまま収録されていることです。かなり長大な長さになります。

ジェンドリンは、そこで、これら先達の業績を認めつつも、それらがcontent paradigmとrepression paradigmの限界を示していることでは共通していることを論じた上で、更に論を進める構造にしている。

私の体験過程理論の理解において、この「削除された草稿」部分こそが、理解していく圧倒的鍵になったのですね(^^)

「人格変化の一理論」全文を私は十数年がかりでクローズドなグループで再訳出する作業を私は進めました。

 このブログでは本音を書きますが、「セラピープロセスの小さな一歩」での改訳は、実は旧村瀬訳を定本とした部分的修正に過ぎません。

 旧村瀬訳の誤りを訂正できた箇所もたくさんありますが、私見では、一部には明らかに「改悪」もあります。そして、旧村瀬訳の問題点を放置したままの箇所が「あまりにも多い」。

(そのうちの数箇所は、ブログで具体的に公開していますよ)

 残念ながら、「とりあえずの修正パッチ」の感は否めず、不徹底であり、それどころか、結局ジェンドリンの意図を村瀬先生の解読し得た以上の水準まで深く汲み取る作業を「ほとんど」できていないのです。

 それなのに「プロセス・モデル」の解読に熱中すること自体、10年早いというのが私の本音ですね(^^;)

 目先の流行に乗り過ぎて、足元固めてないんですよ。同じ「輸入する」ならもっと圧倒的なまでの学問的良心性が要るのに。

 もっとも、村瀬先生は、中井久夫先生と並び称されるくらいに、日本の臨床家で翻訳の要求水準に厳しい先生でした。その村瀬先生すら到達し得なかった地平まで読解することの、「ほんとうの途方もなさ」に気づいて欲しかった。

 今度抜本的な改訳がされる機会があれば、私は断じて「混ぜて」もらいます(^^)

 でなければ、数年後までには教職に就いて「老後の生活の安定」だけはいただくつもりですので(^^)、私が自分の意志で、誰にも妥協しない水準の「抜本的改訳」を、旧村瀬訳への敬意を示しつつ、出版します。

 それが、故・村瀬先生に、一介のアマチュアから「いきなりひろってもらった」私のmissonと思っていますので。

masaru さんのコメント...

コメントありがとうございました。

いろいろなことの辻褄が合っていくような感じがします。

ウェブ版をしっかり読んでみたいです。

masaru さんのコメント...

HTMLタグを調べたので、クリックするとジャンプするようにします。
人格変化の一理論 A Theory of Personality Change

わたしにとってフォーカシングの魅力は、わたしがわたしであることを認める、その意味においてどのような立場の人にも役立つ、その意味でわたしがどのような立場で生きていこうと役に立ってくれると感じられることにあります。

「夢とフォーカシング」から読み始めた今回の一連のジェンドリンその人の著作の読書は、夢の実際の分析より、わたしにとっては自分の感じていること、からだで感じていることを認めていいんだという「驚き」、からだで感じることを認めるというフォーカシングの基本にわたしの意識やからだが目覚めることから始まりました。

わたくしは、いつでも細かい技法の生まれる源に関心があります。